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新しい芽を

甲賀三郎

 素人だ、素人だと云いもし、思いもしているうちに、探偵小説を書き出してから、もう足かけ十年になり、それで生活を支持するようになってからでも、まる五年になる。大学で専攻した応用化学で、飯を食っていた間が、十年にやや足りないのだから、年数では大差がない事になる。之では、もう素人だと云って澄してはいられない。
 所で、そろそろ玄人の域に這入らなければならない時代になりながら、作品はと云うと、誠にお恥かしい次第で、之はと云うものが少しも書けない。
 尤も、云い訳けを許して貰えば、この頃は、昔よりずっと苦心はしているのだ。探偵小説家は、誰でもそうだろうが、筋を作る苦しみと云うものは、並大抵ではない。ああでもない、こうでもないと、頭の中で書いては消し、消しては書き、本当に骨身を削るとは、この事だろうと思うほど苦しむ。こんな時に、遊びの誘いでもあろうものなら、後で一層ひどく苦しむのは分り切っていても、直ぐ応じて終う。仮令[たとえ]一時でも、苦しみから逃れたいからだ。一週間も二週間もボンヤリしていたら、遊び続けたら、傍目には、いかにも気楽そうに見えようが、その間こそ、実に苦しい時なのだ。〆切が近い来ると、半分病気になって終う。然し、一面から云うと、〆切があればこそ、何とか無理やりに絞り出せるのだ。その証拠には、〆切なしで請合ったものに、出来たためしがない。
 然し、いくら苦心した所で、出来上ったものが駄目なら、それっきりの問題なのだ。作者は読者に苦心の押売はする事が出来ないのだから。
 十年も書き続けていて、何故もっと面白いものが出来ないかと云う事については、探偵小説が他の小説と違って、だんだん書き悪[にく]くなると云う特質もあるが、要するに、勉強が足りないのだと云う事は、私には能[よ]く分っている。
 私はどう云うものか、病気で寝ると云う事がないのだ。二十年ばかり以前に、一高の一年生だった時に、急にひどい熱を出して、カタル性黄疸と云う、余り自慢にならない病気にかかって、一週間ばかり苦しんだ事があるが、その後、二日と続いて、熱を出した事がないのだ。前後二回の流行怪[せい]感冒が猛烈にはやった時、周囲[まわり]の友人がバタリバタリと斃れて、中には死んだ者も少くなかったが、その時さえ、とうとう罹らずに終った。
 私は一年に一度位、書物が読める程度で、寝ていなければならない病気にかかりたいと思う。と云うのは、前に述べた通り、筋を考え出すのに、悩み抜いて、漸く作品が出来る。急に解放された気持になる。病気を知らないものだから、つい、不養生をする。夜更しをして遊ぶ。そのうちに、もう次の〆切が近づいて来るのだ。
 私はつくづくワ゛ン・ダインと云う男は幸福な男だと思う。彼は書物の読める程度の病気を三四年もして、寝ているうちに、内外の探偵小説を何千巻と読破し、起きると、蘊蓄[うんちく]を傾けて、五六冊の探偵小説を公にし、忽ち、余生を読書に送れる程度の産をなした。全くの幸運児である。私だって、三四年間、読書に暮す余裕が与えられれば、グリーン家の殺人事件位のものを、五六冊書くのは何でもない、と、まぁ、そう思うのである。
 けれども、実は健康体でいながら、病弱の人を羨むなんて、凡そ、勝手極まる事であって、健康ならば、尚更、勉強が出来なければならない筈である。が、そこが、又そこで、健康に委[まか]せて、つい、遊んで終うと云う訳なので、つまりは我がまま勝手なのだが、どうも、いつまで云っていても、きりがないように、どうも、なのである。
 然し、之では、讀者諸君に対して、甚だ相すまないと思う。いや、思うのは夙[と]うから思っていたのだが、昨今はいよいよ決心を堅めたのだ。いや、もっと打割って云えば、決心すべく余儀なくされたので、実はもう種が尽きたのだ。新たに何か仕込まなくては、どうにもしようがないのである。その上に身体はどうやら健康だが、頭はもう疲れ切っているのだ。この上、無理に絞ろうとしても、到底出来る事ではない。何とか、営養を供給しなければ、涸渇して終うのである。
 そこで、私は遅蒔[おそまき]ながら、本年から、大いに勉強して、頭に養分を与え、新たな芽を培って、一つ育てて見ようと決心した。この芽がどう云う風に育つか、讀者諸君は辛抱して、見て頂きたいと思う。十年の間も、じっと辛抱して貰った古い読者に対して、この上の辛抱を強いるのは勝手な話だが、そこは、永年の誼である。一つ、騙されたと思って、今暫く、御辛抱を願いたいと思う。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
所謂甲賀三郎の宣言と言えるだろう。そしてこの宣言は実行された。私が今まで読んだ「新青年」作品に関してはその差異は明かと言っても良い。それに代表長篇「姿なき怪盗」もこの年。なお、これらについては甲賀三郎雑記に私見を記しておく。
六段落目の「流行怪[せい]」だが、これは原文のママである。云うまでもないだろうが、どう考えても「流行性」の誤植と思われる。