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梅雨季のノートから

甲賀三郎
  

似非報道主義
 犯罪にも流行がある。最近に頻々と起る郵便局襲撃もその一つだ。或る型の犯罪が流行すると、偶然に他に似通[によ]った事件が起ると、やはりその型の中に入れられるがその事を巧みに利用して、自己の犯罪を流行性犯罪の中に蔽[おお]い隠して終おうとする者が現われる。この事は小説によく用いられる所で、半七捕物帳の中の「猪突き」事件は、その尤[ゆう]なるものである。
 郵便局襲撃もその例に洩れない。市内某所の郵便局長は、強盗に襲撃されたように見せかけて、自己の不正遣い込みを胡麻化そうとした。多くの読者は、新聞紙上に郵便局長襲撃さるという大見出しを見、郵便局閉鎖直後に裏口から這入って来た壮漢が、矢庭に局長を布[きれ]に包んだ石で殴打し昏倒せしめて、在合せた現金数千円を掴んで逃げたという記事を読んだ時に、又かと思ったに違いない。狂言ではないかと考えた人は、恐らく極く少数だったであろう。一つには新聞の書き方が動かすべからざる事実のように取扱ってあった為だが、類似の犯罪が頻々として起っていたので、読者にはそれが当然であり得る事という考えの方が早く、疑いを挟む余裕が与えられなかったという事が、大きな理由であろう。局長氏の覘[ねら]った所も、つまりその点だったのだ。
 私の読んだ限りでは、Y紙が狂言説があると書き加えてあっただけで、他紙は尽く実際に襲撃されたように報道されていた。この事は些か新聞の価値に影響しやしないかと思う。決して結果から論ずるのではないが、新聞の報道主義はいいとしても、それがありのまま伝えられないのはいけないと思う。この事件についていえば、新聞は恐らく警察当局の発表を基にしたものだと思うが、警察当局は本人の訴えを信じた上か、それとも只取次いだだけなのか、兎に角本人の申立を発表したのに過ぎないと思う。新聞紙としては、当局の発表する所によればとか、或いは本人のいう所によればとか書き加えて置きさえすれば、立派にありのままの報道になるし、又そうしなければいけないと思う。それを恰も見て来たように、委[くわ]しく襲撃の模様を書き立て、読者に真実性を確信させるような書き方をして、而もそれが狂言と判明しても、ケロリとしているのは、余り体裁のいいものじゃない。極く最近の或る新聞に一人の婦人が強盗に見舞われた事を報じて、人相之々の強盗が這入ったと訴え出たと書いてあった。郵便局長の狂言に懲りた訳ではないだろうが、無難な書方だと思う。
 然し、無難だといって、いつも当局の発表によればとか、被害者のいう所によればとか、強盗の訴えがあったとかばかり報道しているのも余りに智慧のない話である。その譏[そし]りを免かれる為には、新聞記者がありのままの報道は報道として、その上に記者としての意見や推理を附ければいいと思う。報道主義は決して無批判主義ではない筈だ。記者としての意見や批判を事実の中に交ぜて、どこまでが意見が、どこが事実か境界が判然としないようなのは、報道主義に反する恐れがあるが、ちゃんと区別して置けば、少しも主義に悖[もと]らないと思う。例えば郵便局長の狂言強盗事件でも、局長の訴えは訴え、当局の発表は発表として別に周囲の状況から、疑うべき節があると記者の意見として書き加えて置けば、立派なものではないか。真偽未だ決せざるものを、真なりと報道するのはいい事ではないと思う。

結婚詐欺
 福田蘭堂君が大分世間の話題に昇っている。この事で考えさせられるのは結婚詐欺という事である。
 刑法の詐欺取材という所には人を欺罔[ぎもう]して財物を騙取したるものとあり、詐欺取材には二つの条件、即ち人を欺罔して錯誤に陥らしめることと、依って財物を騙取することが必要としてある。
 所謂結婚詐欺であるが、当初から結婚の意志なきもの、又は結婚の不能なるものが、結婚する如く装うて、相手から金銭を騙取した場合には問題はないと思う。然し、当初は十分結婚の意志があり、その為に金品の贈与も受けたが、後に結婚が意志のなくなったような場合、直ちに詐欺呼わりは出来ないだろう。而も、結婚の意志が当初からなかったのか、中途からなくなったのか、という鑑定は容易な事ではないから、誠に厄介千萬である。
 岡田博士の「刑法の智識」によると、所謂欺罔[ぎもう]のうちには消極欺罔[ぎもう]というのがあって、それは、「他人の心理に存する錯誤を覚醒すべき法律上の義務在る者、又は他人の従前より有する信念を変更すべき法律上の義務ある者が、之に反[そむ]きて其錯誤又は信念を維持する」のをいうのであるが、当初の結婚の意志を翻したものはつまり、相手方の従前より有する信念を変更させなければならない訳だが、その事が果して法律上の義務であるかどうか疑わしい。実際問題としても、堅く結婚の約束をした当事者が、相手が尚それを信じ且つ希望している場合に、迂闊にその信念を変更すべき手段を取ることは出来ない。心中既に結婚の意志を失いながら、明[あか]らさまにそれをいい出し得ないで、止むを得ず依然として贈与を受けている場合も、人情からいって許容しなければならない事があると思う。
 更に岡田博士に従えば、「一定の偽計が人を欺くに足るや否やは、主として相手方の智能、記憶、判断又は社会上、法律上の地位に因りて定まる相対的の関係なら、絶対的の標準はない」のであるが、「然れども相手方が自己の鑑識其他の考察を加えたる上にて、猶お錯誤に陥りたる場合は、均しく欺罔したりと倣[みな]すを妨げない」ので、例えば無価値のものを、有価値の如く欺罔[ぎもう]して入質した場合、それは質商の側の鑑定智識の不足に原因するけれども、やはり欺罔[ぎもう]と見倣[みな]されるのである。即ち欺罔[ぎもう]手段は千差萬別で、常習者は時と場所と相手により巧妙な手段を案出する。又それにはいかに学識経験のある人でも欺罔[ぎもう]される場合がないとはいえないのである。殊に男女の間の恋愛関係は非常にデリケートで、欺罔[ぎもう]し易い一方には、果して欺罔[ぎもう]の意志があったかどうかという鑑定の不能の場合が起り、従って結婚詐欺は一般の詐欺より成立し悪[にく]いように思われる。
 結婚詐欺は成立しなくても、尚婚姻予約不履行と名づけられるものは成立するが、それは民事の損害賠償に過ぎず、いずれの場合にしても、女性にあっては既に物質に替え難い貞操を奪われた後の事であるから、訴訟を起した所で、到底その償いは得られないのだ。だから女性は婚姻予約などという事は、軽々しくするべき事ではなく、男子よりも一層慎重にしなくてはならないのに、世に軽卒な女性の多いのには驚く。
 毎日の新聞紙上に現われる悲劇、自殺者、身の上相談等々、それが女性に関する限り、殆どすべて婚姻不履行破婚だといっていい。女性たるもの貞操を盗む詐欺漢には、十分過ぎるほど用心しなくてはならないと思う。

探偵小説の話
 今更事新らしく探偵小説論でもないが、凡そ物が分類されるのは、それ相当の理由がなければならない。探偵小説といって、一般の小説から分類され、その作者までが探偵小説家と殊更らしく呼ばれる事が、探偵小説の特種性を明示していると思う。
 探偵小説は断じて推理の小説である。そんな窮屈な殻の中に這入らないで、自由の天地で書いたらいいではないかという言葉は、作家に向けるべき言葉で、断じて探偵小説についていうべき言葉ではない。
 所謂探偵小説家の中には、探偵小説作家に分類されて困っている人もあると思う。作家[さくか]は自由であるべきだ。ミステリー小説でも、スリル小説でも、ユーモア小説でも、どしどし書くべきだ。然し、それらの作品に探偵小説と銘打つ事だけは余計だ、探偵小説家に分類された為に、探偵小説を書かなければならない事も困りものだが、探偵小説家に分類されている為に、その書くものが探偵小説に分類されるのはより以上に困りものだと思う。自由な作が書きたい為には、先ず探偵小説家の名を返却すべく、同時に探偵小説家に分類されている人達の書くものは探偵小説であるといったような偏見は止めて貰いたいと思う。
 探偵小説に限り、余り作家[さくか]の分類をハッキリさせ過ぎた嫌いがあると思う。作家[さくか]は度々いう通り自由であるから、探偵小説家に分類されていようがいまいが、構わず何を書いてもいい筈だ。だから、探偵小説家に分類されている人達の作品を、直ちに探偵小説の尺度で批評すべきだと思う。
 馬には馬としての鑑賞があり批評がある筈だ。実にいい馬だが、惜しい事には角がないという批評は、決して馬の批評ではない。
 尤も牛と馬とは分類上も近いものであるから、健康であるとか、毛並がいいとか、性質が温厚だとかいう幾多の共通の批評点や鑑賞点があり得る。然し、角の問題になると、最早馬の批評ではなくなるのは当然である。
 探偵小説家と探偵小説とが、各自唯一の存在であり、探偵小説は必ず探偵小説家に書かれ、探偵小説家は探偵小説以外のものを書かないという風になっていれば格別、それでない以上は、作家[さくか]に向けるべき言葉を、探偵小説に向けてはならない筈だと思う。
 要するに探偵小説は分類上飽くまで探偵小説であり、現在の日本の所謂探偵小説家は、全然探偵小説を書いていないと、ハッキリいえると思う、但[しか]し、それらの作家[さくか]の書く作品の可否優劣については別問題である。
(九、六、二六)


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
特に書き記すこともない。三つ目の探偵小説の話は有名だが、甲賀三郎の持論であり、正しい道を指し示す名論理である。