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昭和八年から十年まで

甲賀三郎

 私が文芸家協会の仕事に多少でも携わるようになったのは昭和七年の事で、年鑑編輯委員などを仰せつかったが、之はそう大して実務はなかったようである。そんな事が縁になったのか、やがて評議員の列に加わり、昭和八年の初めに、出版権法案対策の実行委員に挙げられた。之が、後に協会の理事の末席を汚す原因となったものである。
 出版権法案というのは時の議会に提出される法案で、著作権法に対して、出版社の権利に関する法案だから、著作権たる作家に取っては相当大きな問題だった。私は元より法律には素人だが、探偵小説を書く建前から、刑法、民法、刑事訴訟法など一通りは読んでいたので、甚だ偶然な事だったが、浜尾四郎子爵が知らなかったような法律智識を持出して、驚かした為に、同君の推薦によって、実行委員に加えられてしまった。浜尾子爵は若くして逝いたが検事を辞して弁護士になり、後に探偵作家の列に這入った人で、その頃は協会の法律顧問格で榛村弁護士と共に、協会の法律関係を処理していたのである。
 出版法案対策については法案の委員になった議員など訪問して、少しは実行委員たるの責任の申訳はしたが、元より私などの働きは問題ではない。決るように決った訳である
 所が、その年の末に、協会の組織について劃期的な改正の動議が持上った。之は全く特筆大書すべき事件で、所謂文士と呼ばれている人達の、いわば懇親機関であり、職業組合的意味のあった団体を、法人組織にして認めさせるという考えは少くとも文士の間では一寸考えつきそうもない事である。よし考えついたとしても、実現させる自信は持てないのが普通だと思う。
 この劃期的な動議を提出し、而も実現まで持って行ったのは、佐佐木茂索氏始め当時の幹事諸君であった。
 佐佐木君がこの劃期的動議を幹事及評議員の聯合会議に持出したのは、昭和八年十二月八日であった。爾来実に一年、幹事諸君の非常な努力の下に昭和九年十一月遂に社団法人文芸家協会が設立された。この基礎が今日の日本文学報国会の設立に大きな役割を勤めたのであって、後者が最初から監督官庁の諒解と後援があったのに比べて、前者は全く孤立無援の所から立ったのだから、幹事諸君の苦労は大きなものであったといわねばならない。
 法人組織と共に幹事諸君は一応理事に就任したのであるが、丁度幹事としての任期が尽きたのを名として、勇退を決し、ここに後任理事に引継ぎ、私がその後任理事の一人たる栄誉を担った訳である。名は二代目であるが、実は法人となって出発する最初の理事であった。後任理事として就任したのは、沖野岩三郎、榛村専一、杉山平助、芹沢光治良の諸君と私の五人で、榛村君が互選によって常任理事になった(。)この五人は兎に角も出席率はよかった。定例の会議には殆ど出席していた。さて、以上の理事で文芸家協会は法人として新しい出発をした訳であるが、恥ずかしい事には私達は別に新しい仕事を少しもしなかった。元の文芸家協会通りの、会員の入退、会費の徴収、会員の利益の擁護といったような仕事をやるに過ぎなかった。大いに寄附金を募集して事務局を強化し、劃期的事業をやろうなどという考えは更になく、政府から助成金乃至補助金を出して貰おうなどとは夢にも考えなかった。そういう手があるという事さえ知らなかったのである。理事がホンの片手間の仕事であった事がそうさせたともいえるのだ。
 そういう訳で、一向華々しい仕事をしないから、相変らず会費の集まりも悪いし、納付金といった会員の原稿料の一分乃至二分を寄附して貰う上りも思うように行かない。そこで考えたという訳でもないが、会員の便宜を計ろうというので、演劇映画の入場料を割引して貰う事を運動した。之は協会員の鑑賞を求めて、演劇映画の向上を期する為というので、松竹では六割引という特別の取扱いをして呉れた。東宝は遂いに応じて貰えなかったが、松竹は演劇映画には大きな分野を占めていたから、会員は大いに利益した。この為に入会希望者が多少増えたかと思う。
 然し、何としても会費と納付金では賄い切れず、折角法人にはなったが、会計の基礎が不安だという状態が続いた。之も、その為に考えついたのではないが、会長問題が理事評議員の間に起ったのだった。
 法人組織になった時には会長がなかった。会長が欠員だったのでなく、会長を置く制度がなかったのである。立案者の考えを付度すると会長の適任者がなく、強いて挙げれば偏する嫌いがあり、いっそ会長を置かない方が運営上無難であろうという所ではなかったかと思う。
 然し、実際上会長がないという事は、外部に対する代表者がない事であり、格好が悪いし、内部的には必ずしも会長がなくても運営は出来るが、この際、大いに財的援助でもして呉れる実力ある会長を戴こうではないかというのが、提案者側の意見だった。然し、外部からは求めず必ず会員からというのが一致した意見であった。
 当時、文芸家協会は三百人程度の会員を要したに過ぎないから、会員中からといえば、候補者は幾人もない。というよりは一人に限定されているようなものである。それは菊池寛氏に他ならない。
 私の考えでは恐らく文芸家協会が法人組織に改組される時に、会長として菊池氏の名は挙がった事であり、挙がらないまでも、幹事諸君の念頭にあった事と思う。それが実現しなかったのは、やはり多少偏するという考え方であろう。偏するというのは菊池氏が文芸春秋社を経営しているからである。文芸春秋社は文壇に於ける一つの勢力であり、その勢力が文芸家協会に及んで、法人が私有化するおそれが多少あるという懸念であろう。そういう懸念を持つという事は否定されない事であり、現に評議員中にもそういう事をいった人もあった。然し大体に於て賛成が多く、殊に故長谷川時雨女史などは最も熱心な支持派だった。理事に於ても異存はなかった。只、満場一致という事でなければ菊池氏も受け悪いだろうし、各方面の打診をした結果、賛成が多く、積極反対が絶無だったので、遂いに菊池の出馬を煩すことになった。
 この使者には長谷川時雨女史と私が行った。菊池氏はすぐ承諾して呉れた。何か少し勿体ぶられるかと思っていた私は案外だった。私は理事が先にあって、会長が後から来たのでは仕事のし悪い事があるだろうから、私に限りいつでも辞任して、あなたの仕事のしよい人と代りたいといった。菊池氏はそれについては何にも答えなかった。
 こうして、最初の、そうして最後までの会長は出来たのだが、菊池氏のお蔭で、消極的にやっている分には、協会の財政は心配がないようになった。
 菊池氏は会長に就任すると、その記念事業という訳ではないが、文芸会館が持ちたいといった。九段に行くと軍人会館という立派なものが建っている。あれほどでなくても、文士の会館が欲しい。近くオリンピックで、向うの文士も来るから、会館が一つ位なくては見っともないではないかという意見である。
 私達は無論賛成だったが、何しろ相当の費用の要る事なので躊躇した。然し、菊池氏はドンドン実行に移り、自分も寄附し、講談社、主婦之友社その他の出版社から寄附を貰い、会員からも寄附を募って、数萬円の金を集めた。まだもっと集めて、鉄筋コンクリートの何階建かの建物を作るつもりだったのである。所が支那事変に遭遇し、新規建築はむずかしくなり、規模を小さくして、既設の建物を買収する案になったが中々に思わしい建物がなく、そのうちに事変はドンドン拡大するし、寄附の方も未だ申込の分はあったが、寧ろこっちから辞退するという風になり、規模が益々小さくなって、現在の文芸会館になったのである。文芸会館の買収が実現したのは、私の理事の任期が尽きて後であったが、私はその委員であったので、買収の議には与った。この文芸会館があった為に、そしてそれをそっくり日本文学報国会に寄附して貰った為に、どれ位助かったか分らない。日本文学報国会が設立早々短期間に、多くの有意義の事業がやれたのは、久米常務理事の積極性と事務局職員の献身的勤務に負うものであるが、設立と共にこうした事務所が得られた点も与って大いに力があるのだ。
 春秋の筆法を以ってすれば、我々が理事の間に菊池氏を会長に推し、菊池氏が会長になって文芸会館が生れたのだから、我々は大いに日本文学報国会の為になっているといわぬばなるまい。
 私達は前にも述べた通り、菊池氏を会長に戴いた以外は、実に碌々なす所なく、無為にして日を送ったもので、誠にお恥かしい次第である。強いて挙げれば若干の仕事はしたかも知れないが、又、他の理事に一言の挨拶もなく、私達などといって、無為の仲間に入れてしまう事は甚だ恐縮であるけれども、まァ、そういう訳であった。
 かくて昭和十年十二月に二年の任期が尽きて、私は総会の席上、顧みて無為無能であったと深謝し、次の有能なる理事諸君と交代したのであった。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
元々ルビはなかった。読みにくい字に「悪い」があるが、文脈から「にくい」と読むべきであろう。
「法人組織と共に」で始まる段落の、(。)は私が補助的に加えた句読点で、原文にはこの(。)はない。