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国民保健と三尾問題

甲賀三郎

 国民保健の問題が喧しくなって来た。全く新興国民の体格が年々低下するなどという事になっては由々しき大事である。体格低下の原因については十分検討され、対案についても種々考究されているようだったが、私はここに稍支流的であるけれども、容易に実行出来る方法として、三つの問題を提供したいと思う。
 その第一はルビの廃止である。
 近年活字は益々小さくなって来た。親活字が往年のルビ位の大きさであるから、ルビの如きは全く顕微鏡的のものである、こんな小さなルビがいかに視神経を刺戟し、いかに脳を疲労させるかは、敢えて専門医家を待たなくても、常識で分ると思う。
 ルビの廃止は、植字校正等に従事する印刷技術家の負担を軽くし、文筆業者には漢字制限を余儀なくせしめる。
 日本国民が漢字によってどれ位の精力を浪費しているかは、やはり常識の問題であるが、吾々の如く文筆に従事し、漢字に対して普通人以上に愛着を感じているものでも、漢字の制限は刻下の急務だと思っている。時非常の際に当り、工業技術者の貧困を嘆かれているが、工業技術者には医学計算製図等は必須であるがむずかしい漢字は別に必要とせぬ。幼い時から漢字から解放して、その精力を必要学科に向ければ、工業技術者の養成はより容易であろう。
 よし、ルビの廃止が早急に行われ難いとしても、少年少女以下の幼年読物については、絶対に即時に廃止して貰いたいと思う。大人は必ずしもルビに頼らないけれども、少年少女以下は殆どルビに頼っている。殊に彼等はそれらの読物を寸陰を惜んで貪り読むのだから、保健上寒心の至りである。もしどうしてもむずかしい漢字が必要だとしたら、その下に括弧をして、同号の活字で仮名を入れて貰いたいと思う。

 第二に廃止して貰いたいと思うのは女の帯である。
 最近の新聞ニウスに、陸軍省の女タイピストの洋装を禁じたとあったが、之はどうしても合点の行かぬ事である。思うに、洋装が華美になった許りでなく、頬ぺたを彩ったりする醜悪化粧法が甚しくなったりした為ではあるまいか。いかなる議論を以ってしても、女子の和装が敏活な運動に適しない事は反駁出来ないだろう。和服の運動を不自由ならしめている中心は何といっても、あの幅の広い結ぶに手数のかかる帯である。吾々は嘗て、満洲婦人の纏足を嗤ったが、日本婦人の帯こそ纏足に勝る纏身である。男性の方からいうと、女性を人形美に甘ぜしめて、男性の絶対統制下に置くという事は誠に便利で、早い話が少々機嫌を損じても、帯一つ買ってやれば、それは胡麻化せるという手がある。然し、女性はそれで甘じていいか。明治維新に逸早く洋服を採用した日本男性は、精神文化の方面は暫く措き、物質文明の方面では早くも欧米を凌駕したではないか。然るに、女性に至っては、旧態依然、文化に何一つ貢献していないのは、つまり帯の為なんである。
 といって、私は何も今更女性を煽動するつもりは毛頭ないので、肉体をすっかり包み隠して、衣裳美以外何にもなく、いい恰好だとか、柄がいいとか、男性の玩弄物となって、それで満足していられる女性は、それで差支えないけれども、困るのは帯の纏身、運動不足、衣裳の為に栄養の低下、等等で女子の体質が劣悪になる事である。何といっても母性が健康でなければ、国民の体質はよくなる筈がないのだ。比較的高価で、而も非衛生で、運動不足になったり栄養にまで影響する帯――この頃では折角衣裳美の中心たる帯を、大抵の場合羽織やコートで隠しているのだ。愚もここに至っては極れりというべし――を廃止するのは刻下の急務だと思う。
 帯の廃止は直ちに洋装という事にはならない。然し、結局の所、洋装以外に適当な服装が見つからないかと思われる。当分のうち、恰好が悪いという事は辛抱しなくてはならぬだろう。男性だって、洋服の着始めは珍だったに違いない。羽織袴に靴穿きが紳士だった時代もあった。女だって、洋服に下駄穿きでも構うものか。要は帯の廃止を決するにあり、それから後は、又相当ないい形が現われると思う。

 前二者は廃止の方だが、三番目は奨励の方。曰く旅である。
 旅といっても、和服の女連れで、シャナリシャナリ二等で温泉行きというのではない。ピクニックとかハイキングとか、敢えて外国語でいわなくてもいい。野遊び、山歩きである。
 その点日本は恵れている。ベルリンあたりでは、日帰り位で山がないので、青年が背嚢に煉瓦を入れて、平坦な道を往復して心身を鍛練しているという事だ。日本では田舎は勿論、東京大阪のような都会でも、日帰りでも、土曜から一泊でも、一生行き切れないほどの山がある。尤も同じ所へ行って悪いという事はない。学生は元より頭脳労働者たる俸給生活者の人人、男女打連れて、休日には之らの山へ、ドンドン出かける事にしたい。山登りは頑張り一つで、心身の鍛練にはなり、困苦窮乏に堪え、一朝有事の際どれだけの助けになるか知れない。確かに楽しみつつ国民保健の一助になると思う。
 野歩き山登りを盛んにするについては、雇主が使用人に出来るだけ多くの休日を与える事、鉄道省私鉄各社が賃金の割引をウンとすること、休日は特別運転をすること、登山路に当る地元の人達が、路をよく改修し、指導標を完備する等の事が望ましいと思う。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
本文ルビなし。ゆえに編集人の私もルビは附けない。それに難解字もないだろう。
しかしこれを読むと、いかに甲賀三郎が実に先見性に優れた人かが分かると思う。第一のルビ問題は究極的には、戦後の新字体漢字や新仮名の精神に繋がる事であるし、第二のフェミニスト的文章も些かズレもあるが十分戦後社会を先読しているし、何より人間性もわかるというものだ。
ちなみに三番目の旅の文の二段落目にある《シャナリシャナリ》だが、原文では《シャナリ\/》(※"\/"は踊り字の代換え記号)。ゆえにもしかしたら読みが違う妥当かもしれないので注意。