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応用文学論

甲賀三郎

 大衆小説には確乎たる目的がある。一、大衆に読まれる事、二、大衆を楽しませ、且つ勇気づける事。大衆作家はこの目的を遂行する為及びこの目的を損しない範囲に於て、各自の芸術を自由に表現する事が出来る。
 純小説と大衆小説との差は一にこの目的の有無にある。即ち純小説にはかくの如き確乎たる目的はない。この両者の関係は純正科学と応用科学との関係に略[ほぼ]似ている(。)即ち純正科学に真理の追究以外に何等人生との直接関係を顧慮しないに反して、応用科学は科学を応用して、国利民福(*)を計り、大にしては人類の幸福を計るべき事を研究する学問であって、確乎たる目的を持っている。例(*)せば純正科学は●糖の分子は炭素水素酸素の各原子よりなる多糖であって、転化によって二ヶの単糖を生ずる事等を証明するが、製造化学はそれらの純正化学の証明する所には関係なく(但し関係ある化学は利用す)甘蔗より最も安価に且つ多量に蔗糖を製造すべきことを研究する。基礎医学は人体の構造生理等の純理を究むるに反し、臨床医学は基礎医学の教うる所に基き、病気の治療を研究する学問である。即ち臨床医学は病気の治療と云う唯一の目的を持ち、そのあらゆる企てはすべての病気を治療する話であらねばならない。
 文学以外の芸術について、如上の如き関係は美術と建築、純絵画と装飾或いは挿画[さしえ]等に見られる。挿画について云えば、純絵画は取材は自由であって、確乎たる目的を持っていないが、挿画は文章を説明すると云う確乎たる目的を有し、取材は限られている。挿画画家は与えられたる文章中から、最も芸術的表現の可能性ある場面を選び、芸術的に表現する事は出来る。然し、彼は文章を説明すると云う約束を忘れる事は出来ない。  建築、挿画等は純芸術に対して応用芸術と呼ぶ事が出来る。同様に大衆小説は純文学に対する応用文学の一部門と云う事が出来る。
 大衆小説の目的中一に対しては何人も異議がないであろう。二について異論があるかも知れぬが、それも要するに、その方法についての異論であると信ずる。即ち大衆を楽しませるにしても、卑俗低級もあり、高尚優雅もある。又大衆を勇気づけるにも、反動的、羊頭狗肉的、乃至階級意識的等種々の方法がある。そのいずれを選ぶかは各作家の芸術と良心と思想とに依るので、各作家の自由である。
 然しながら、同時に各作家は大衆をして正しく楽しませ、正しく勇気づけるべき義務を持つと信ずる。一方に於ては多くの読者批評家が所謂大衆小説に対し或いは輩(*)蹙し、或いは反感を持って、それを正しく導こうとする親切と勇気のないのを遺憾とする。批評家純文学者は大衆小説家に分類されている人々の作品或いは論文については殊更に黙殺しようとする悪傾向がある。
 大衆小説は一般社会に対し、可成り大きな影響を与えつつある。現行大衆小説を正しく導く為に、正しく批評して、その勝れたるものを誇れたりとする事は、純小説の創作批評と同列に論ぜらるべき大事ではないか。
 
 大衆小説には確乎たる目的がある。一、大衆読まれる事、二、大衆を楽しませ、且つ勇気づける事。此については前項で述べた。
 ここに起こる問題はかくの如く目的を持つ応用文学及びそれを奉ずる文学者が、純正文学及びそれを奉ずる学者の下位に置かれなくてはならないかと云う事である。
 この事実は遺憾ながら応用科学と純正科学との間にも起っている(。)然し、何故に甘蔗より蔗糖を経済的に製造すべき化学を研究する学問及びその学徒が、蔗糖そのものの性質等を研究する学問及びその学徒の下位につかねばならないか(。)人間の病気治療を研究する学問及びその学徒が、人体の構造生理を研究する学問及びその学徒の下に置かれねばならないか。(但し、奇妙な事には他の科学と応用科学との関係に対し、唯一の例外として往々臨床医家が基礎医学者が貴ばれる事がある。之は恐らく直接人命を扱うからであら[ママ]。)
 小説以外の芸術についても、純正芸術は常に応用芸術の上位に占めている。例えば帝展に於ては最近まで工芸品を展覧しなかったし挿画等については、その芸術的価値は甚だしく低く見られいる[ママ]が如き観がある
 然し大衆小説が純小説の下位に置かれる事は必ずしも大問題でなく、大衆作家も意としないであろう。ただ、大衆小説に対して批評の行われないのは不可でではないか(。)大衆作家は医学に於ける臨床医家が基礎医家より遙かに密接に大衆に接する如く、純作家よりも一般大衆に近い。故に、悪[あし]き大衆作家の一般に及ぼす影響は悪き純作家の比ではない。同時に好[よ]き大衆作家の存在は好き純作家の存在よりも尊いと云える。  大衆小説に対して望ましいものは純小説家及その批評家が、純文学の立場よりして、親切にして忌憚なき批評を下す事である。
     ○
 与えられたる紙数は尽きんとしているが、ここに簡短にプロレタリアート文学に就て一言したい。
 プロレタリアート文学は何等かの目的を有するもので、分類上応用文学に属するものと思う。純文学中にプロレタリアート文学、ブルジョア文学と云うが如き分科ありとは思われない。
 プロレタリアート文学の目的については論ずる余裕がないが、大衆進出を目的とするものならば、一、の点について大衆小説と目的を一にし、二、の点に於ても恐らくイデオロギーを異[こと]にするだけであろう。
 然らばプロレタリアート文学者は大衆進出に当って、先ず悪しき大衆小説を駆逐する必要がある。その為には一、批評を加える事、二、自ら好き大衆小説を示すこと(。)但し一、については極めて解り易く、難解未熟なる訳(*)[やく]語等を使用しない事を必要とする。何となればそれは批評の為の批評でなく、大衆を導く上の批評であるから。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
いくつか付けた(。)は補助的に私が付加した物。原文にはない。
いくつかある(*)、この手前の文字は判読に自信がない文字。
●は全く判読不可能と思われた文字。
初出では(上)(下)に分載されていたが、{上}は《大衆小説は一般社会に・・・》で始まる7段落目までであり、以後の段落は(下)である。便宜上一行空白を開けた。
[ママ]は原文のまま、という意味で変な表現の所に便宜的に私が付加した。