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蛸の鮑とり

甲賀三郎
  

 どこの国でもそうじゃが、軍備の決心、用兵作戦の遂行が、兎角政治に左右され勝ちで困る。わが英国の対独宣戦にした所で、政治家共がどこまで真剣に戦う積かハッキリせん。チェンバレンがひどく強がりをいうのが、反って臭いし、ドイツがポーランドを元の状態にせん限り、いかなる和平提唱にも応じ難しと見得を切るべき所、無条件にいかなる和平提議も一応吟味しようなどと宣言している所など、僕等はどこまで本気にかかっていいのか、全く張合いがないこと夥しい。然し、内閣には兎に角イーデンやチャーチルが這入っておるし、そうのめのめとポーランドを見殺しにして、さようでござるか、然らば戦いは之にて、といって引込む訳にも行くまい。僕等はまァ飽くまで戦争継続と見ておる。
 所で、戦争に本腰を入れるとなると、どうするかというと、別にそう華々しくやるものでもない。ドイツは要するに袋の中の蜂じゃ。小さくてもブンブンといって威勢よくとんでおるし、毒針はあるし、誰も袋の中へ手を突込んで捕まえようとするものはあるまい。袋の口さえしっかり締めて置けば、やがて弱って終って、訳なくピンセットで挟めるようになるものじゃ。

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 諸君は鮑[#あわび]という貝を御存じか。日本では磯の鮑の片思いなどといってな、一枚貝で磯の岩などにピタリと食つついている。その食つついている力というものは大へんなもので、大の男がいくら力を籠めても離す事は出来ん。尤も鮑にして見れば、この貝一つが鉄[くろがね]の城壁じゃ。岩から離されたら最後、柔かい美味な肉は残らず食われて終うのじゃから、一生懸命しがみついているのは当然というものじゃ。
 所で、鮑の敵に蛸[#たこ]というものがいる。御存じかな、大きな胴があって、小さい頭がついていて、頭の先から八本の長い足が別れて、足には疣[#いぼ]が一面についている。見るから怪奇な動物じゃ。このなよなよした怪物が鮑を取って食うのじゃ。大の男でも離せない鮑をどうして岩から離すかというと、蛸は力など使やせん。鮑の貝には貝の縁に沿うて一列の穴が開いておる。この穴は新鮮な海水を流入させて、呼吸もし、栄養も執るという鮑に取っては生活上欠くべからざるものじゃ。蛸は八本の怪奇な足で、鮑の貝のこの穴を塞いで終うのじゃ。最初のうちは鮑も辛抱しておる。が、だんだん時が経って来ると、息は出来んは、栄養は取れんはで耐らない。苦しくなって、つい岩を離れるのじゃ。待ってたとばかり、蛸は浮き出した鮑を足に捲いて、鋭い口に運んで、ムシャムシャとやって終う。
 もうお分りじゃろうが、つまり鮑はドイツじゃ。蛸は我がイギリスじゃ。本国を胴体として、八大洋に八本の大足を延ばし、クネクネと柔軟性のある所、全く我がイギリスは海の怪物蛸そっくりじゃ。
 今、力を持ってドイツをやり込めようと思っても、中々そう容易くはいかん。諸君も知っての通り、第一次世界大戦の時と違って、英仏の陣営に頼むのは合衆国だけで、当時の味方だったソ聯、伊太利、日本はみな中立、悪くすればみんな向う側につく恐れさえあるのじゃ。早い話が伊太利が向うにつけば、陸上の作戦には大した影響はないとしても、地中海作戦が困難になる。その上伊太利は世界に誇る空軍がある。これァ中々厄介なものじゃ。
 一番困るのは、日本とソ聯が提携して、満蒙方面の結着をつけ、日本は海から、ソ聯は陸からインドを侵して来る事じゃ。全くの話、印度はイギリスの宝庫、蛸の足には血が通っていないが、イギリスのインドへ延ばした足は大動脈が通っておるからのう。インドを侵されたら事じゃよ。尤も、そうなれば頼みとする合衆国が黙っていまいが、合衆国の海軍は日本の海軍と五分と五分じゃからのう。そこへ持って来て、味方の悪口は言いたくないが、訓練と魂が違うからのう。日本も優勢な潜水艦を持っとるし、イギリスはドイツの潜水艦に抑えられて、東洋へはとても繰り出せんし、どうにもならん事になる。
 それに第一、片や英仏、片や独伊日ソ、というような事になると、合衆国が英仏側に加担して断乎として立つかどうか分らん。尤も、見方によると、そういう時こそ敢然合衆国が立つ時である、英仏が一敗地に塗れるのを、対岸の火事として合衆国は看過する訳に行かん、というのだが、之もいざとなって見なくては、分らん。何にしても、ソ聯を敵方につけるのは絶対に避けなくてはならん。この際無闇に日本を刺戟すると、イデオロギーの氷炭相容れない間柄でも、一時的にソ聯と握手せんとも限らん。考えて見ればソ聯は世界の敵じゃ。ドイツだって心から親しくなった訳ではなかろうし、イギリスにしても合衆国にしても、ソ聯とはどうしても相容れん仲じゃ。然し、二大勢力が対立した急迫な際には、ソ聯が向うへつくか、こっちへつくかは大へんな相違じゃ。みすみすソ聯の手に乗る事は分っているが、焦眉の急には替えられん。ソ聯を向うへつけてはイギリスの勝味が薄くなる。
 次に厄介なのは日本じゃ。日本が向うにつくか、こっちにつくかは又バランスの上に非常な相違になる。何といっても東海の君子国で、我がイギリスは、従来騙したり賺したり威したりして、すっかり親英派で固めさせていたのじゃが、日支事変以来、あんまり露骨な援蒋をやって、すっかり敵性を見破られて終うた。尤も天佑といおうかドイツの寝返り政策の為に、大分風向きは変って来たが、ここの所で余程旨く取入っておかんといかん。マァ、何といっても永年培かった勢力じゃ。まだまだ親英派が余喘を保っておるから未だ何とかなるじゃろう。マァ、一時は蒋介石に恨まれるかも知れんし、日本の勢力が支那へ浸潤して行くかも知れんが、背に腹は替えられんというのじゃ。日本の関心を、支那に集注させて、シンガポール以西を安全にし、ソ聯と飽くまで抗争させて、印度を全うする。今の所、それで我慢するより他はあるまい。ドイツ包囲政策が成功して、彼を屈服させるまでの辛棒じゃ。ソ聯と日本は後廻しにするより仕方はあるまい。
 何にしても対独作戦は先ず外交よりじゃ。外交のない戦争ほど詰らぬものはない。どこかの威勢のいい国のように、外交なき戦争敢えて辞せずと、口ばかりじゃない実行している所もあるが、我がイギリスは断じて外交が先じゃ。合衆国は今の所、親類友人の間じゃから心配はいらぬとして、先ず第一がイタリーの中立厳守、ソ聯とドイツの離間、日ソ、日米の対立激化策、この三つに全力を注ぐべきじゃ。尤も、長屋のおかみの井戸端会議のように、どこかのおかみがお前さんの事をこういったの、こうのと、御丁寧にレコード持参で吹聴する国があるという噂じゃから、誰が味方やら、敵やら分らぬこの際、外交は中々容易ならん事じゃ。
 所で最後に、ポーランドを見殺しにしてドイツと妥協という残された問題があるが、こうなれば儂は即座に首じゃろうから、作戦もヘチマもない事じゃ。

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 柄になく外交論を永々とやったが、之は本来儂の領分ではない。然し、外交の成否によって、敵にする国と味方の国とがドンデン返しになるのじゃから、それが極らんと作戦も何も立つものじゃない。つまる所、仮定の許に作戦を立てんければならん。軍略上からいうと極めて拙じゃが、現下の状態ではいたし方がない。
 先ず最初は最少限度の国々で戦争が始まるとする。即ち、ドイツ対英仏じゃ。なに、それなら現に戦争している筈じゃと。なるほど、そうじゃった。然し、儂のいうのは、いよいよ英仏がドイツの和平提議を退けて、いざ戦場にて、となった場合をいうのじゃ。
 戦争の常識からいうと、当然空中戦から始まるのじゃが、ドイツが都市攻撃をするかどうか疑問じゃ。軍港襲撃、艦隊襲撃ははやりよいじゃろう。然し、之はまァどれ位の成果を収めるか、大した事はあるまい。ドイツが都市攻撃をするかどうかは疑問じゃ。軍港襲撃艦隊襲撃ははやりよるじゃろう。然し、之はまぁどれ位の成果を収めるか、大した事はあるまい。ドイツが都市攻撃、ロンドン空襲を企てたら、一つ我が軍の手で、ウエストミンスターか、ロンドン塔、大英博物館[ブリチツシユミウヂアム]でも爆破するんじゃな。合衆国始め、日和見の中立国を憤激させて、我が方に参戦させる口実になるじゃろう。然し、政治家共にはこういう度胸はなかろう。
 西部戦は当分釘づけじゃろう。ノモンハンの日ソ衝突で、四ヶ月ほどの期間で、日軍の損害一萬八千という発表じゃ。ソ聯はむろんそれより多かろう。近代戦の恐ろしさというものは之じゃ。西部戦線で真剣に叩き合ったら両軍の損害どれ位になるか分らん。いかに猪突的なヒットラーでも、そんあ愚はやるまい。やるとすれば中立国通過じゃ。
 作戦上から行けば、この中立国干犯という事が、儂は今度の戦争の勝敗を決すると思うのじゃ。どうせ徹底的に叩き合うつもりならば、いずれは国際法のなんのといってはおれんに極っとるから、先にやるのも後にやるのも同じじゃから、思い切って、中立国を通って、潮のように押し出した方が勝ちじゃ。然し、こういう方法は外交上に非常に不利なのは極っている。作戦を主とするか、外交を主とするかによって、自ら相違するのじゃが、大体今の所双方とも外交を主としておるから、中々中立国干犯はやるまい。従って、陸戦は華々しくなりようがない。全くじれったい限りじゃ。尤も、陸軍は友軍のフランス兵が頼みじゃから、イギリスはあんまり大きな事はいえんよ。
 残念なのは我が空軍の劣勢じゃ。戦争を長期に導いて、空軍の大拡張という事は考えられるが、機械は出来ても、そう易々と戦闘員は出来ん。一体我がアングロサクソン族は先祖は勇猛果敢、世界の海を荒し廻ったのじゃが、今は体が大きいばかりで、すっかり懶け者になって終った。海賊の方は体の大きいのは得じゃが、空を飛ぶとなると、そうとはいえん。殊に爆弾にしても、戦闘にしても、最も機敏を貴ぶから、アングロサクソンには苦手じゃ。もしそれヤマト民族に至っては、身体といい魂といい、生まれながら航空戦に適しておる。全く敵わん。出来れば日本の飛行家を招聘したいのじゃが、そうは行くまい。せめて教官でも派遣して呉れたらと思うが、日支問題の癌のある間は出来ない相談じゃろう。
 空軍が劣勢じゃから、こっちから攻めては行けん。防禦専門じゃ。下手な事をして、殲滅を食って制空権を敵に握られたら事じゃ。尤も陸軍だけでは実質的の占領などは出来んから、その点はいいが、民心に与える打撃が大きいからのう。それにイギリスは支那と違って一握りの島じゃ。ドイツ海岸からは指呼の間、制空権を握れられては耐らんわい。
 陸軍は釘づけ、空軍は一方的、海軍は又我がイギリスの圧倒的優勢で、之も華々しい戦争は望んでも得られないし、これァ長期戦になるより仕方がない。ヒットラーは和平提議入れられずんば、速戦即決、空軍と潜水艦で暴れ廻るといっておるが、これァ彼一流の威し文句だ。そんな方法で即決は得られんわい。
 長期戦となればつまり外交戦じゃ。これァ、いつまで話しても話が纏らんわい。  我輩は元来作戦の大家で、大綱的の事を掌って、区々たる戦略戦術には関らんものじゃが、長期戦ともなれば、スパイ戦も面白いと思うのじゃ。幸いに我が英国は工面をすれば金はドイツより余裕がある。中立国の腕利きのスパイを動員して、ドイツ国内攪乱をやらせるのも、儂の好みには適せんが、まァ、一つの手じゃろう。
 聞く所によると、日本では甲賀流の忍術とかいうものがあって、どんな隙間からでも這り込み、或いは姿を消し、或いは鼠の術など使うそうじゃが、いかにせん、毛色が異っているので、ヨーロッパでは工合が悪いし、それに日本人は義によれば生命を棄てても助太刀するが、金では中々動かんそうじゃ。して見れば、イギリスに頼まれて、金づくでドイツ国内に潜入、国内攪乱をする者はあるまいと思う。
 一番いいのはポーランド人じゃ。之は祖国の仇敵じゃから献身的にやるに相違ない。困るのは余程巧みにやらんとドイツ国内への潜入がむずかしいし、這入ってからも中々骨が折れる。この点スイツル人がいいと思う。スイツル人なら、言葉もドイツ語じゃし又ドイツ人に化けなくても、中立国人として、堂々と入国も出来る訳じゃ。小説に出て来るスパイは、高々新兵器の秘密を盗み出すとか、外交の機密書を盗み出す位じゃが、この際、外交の機密書類を持ち出した所で、大した役にも立たんし、新兵器などは事が小さい。兵器工場の爆破とか、航空基地の爆破とか、華々しい仕方もあるが、之はそう易々と行える事でない。一番手取り早くて利目のあるのは人心攪乱じゃ。大乗的作戦見地からいえば、卑怯じゃと思うが、食うか食われるかというこの際、卑怯の蜂の頭のとはいっておられん。尤も考えて見ると、敵も必ずこの手を用いて来るに違いないのだ。大きな声ではいえんが、盟邦フランスは我がイギリスよりこの手に乗り易い所がありやせんかと思う。之は大いに戒しめなきゃならん。
 そこへ行くと、日本という国は実に正義の国じゃな。支那に対して、この後方攪乱という事を一向やってないようじゃ。ヨーロッパ人に化ける事はむずかしかろうが、支那人になら比較的容易く化けられようし、相手の支那人にしてからが、国家的観念というものが稀薄で、拝金宗と来てるから、容易く買収出来ようし、その上支那人は一般に文化が低くて、流言蜚語に惑わされ易い。後方攪乱にはあらゆる好適の条件が備っているのにも係らず、一向甲賀流は活躍していないようじゃ。まさか、スパイを動かすだけの金がない訳でもあるまい。思うに甲賀流の忍術者も、あまり支那大陸には関心がなく、不断から支那語など練習しないで、支那人に旨く化けられないかも知れん。然し、儂は正義の国日本じゃから、後方攪乱などという卑怯な手を用いず、正面から堂々押して行くのじゃと思っとる。

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 えーと、話がこんがらがって終うたが、何の話をしとったけな。そうそうドイツとの戦争の話じゃったな。ソリァ君、戦うとも、断然戦うさ。むろん、ドイツが屈服するまで。なに、ソ聯や日本が向うについたらどうするって。どうもこうもない。むろん戦うさ。戦わなければ、儂は首になるじゃないか。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
【我・参謀長たらば両陣営の作戦比べ】というコーナーの英・仏側の一つで、他に英・仏側には蘭郁二郎の『厳秘作戦』が、独逸側には、大下宇陀児『仮想潜望鏡』、海野十三『日本爆撃』、渡辺啓助『閑な参謀総長』がある。
参考までに《科学知識》昭和十四年十一月号の編輯後記から該当部を抜き出して引用しておこう。
◆‥「われもし参謀総長なりせば」の課題のもとに探偵作家五氏による特輯は、本誌中間読物陣のヒットであろう。欧洲諸国に対しては、かような「対岸の火事」的見方をするのは、大変お気の毒みたいなものであるが、またそれだけに、いわゆる客観的態度という奴をわれわれは十分に取り得る立場にあるわけだから、これらの物語がかれらを示唆せぬとは誰がいい切れよう。実際五氏による作戦はそれぞれ巧妙をきわめたもので、しかも実現が全然不可能な虚構でもなさそうなのである。英仏側にいま一人小栗虫太郎氏の承諾があったのだが、〆切の都合のため掲載できなかったのは誠に残念であった。なお、この企画が木々高太郎氏の発案であることも附記しておく。

(註記1)二つ目の□による大段落分けの後から、三段落目(《戦争の常識〜》の段落)に、《ドイツが都市攻撃をするかどうかは疑問じゃ。軍港襲撃艦隊襲撃ははやりよるじゃろう。然し、之はまぁどれ位の成果を収めるか、大した事はあるまい。》がほぼ同じ文、二つ連続で続いているのは原文のママ、明らかに初出編輯ミスであろう。
(註記2)底本ルビは[ ]で毎度のように括ったが、編者が新たに付けたルビは[# ]とし、区別を付けた。