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愉快な和了[ホーラ]

甲賀三郎
  

 九連宝燈[レンポートン]、大四喜[タスーシー]、清老頭[チンラオタオ]の和了[ホーラ]など、きっと愉快な事に違いないが、私は未だそんな経験がない。大四喜[タスーシー]、と云うよりは正しくは小四喜[しょうスーシー]の空牌[クーパン]だけれども、風牌[ホンパイ]を三つポンして、残りの風牌[ホンパイ]と一索[ソー]の両[リャン]ポンで聴牌[テンパイ]した事があったが、八索[ソー]を掴んだのが運の尽きで、対面[トイめん]に和[あが]られて終った。清一色四暗刻[あんこう]の聴牌[テンパイ]をした事もあったが、之も和了[ホーラ]出来なかった。
 四圏の勝負で、八千何百点勝った記録がある。荘家で二度満貫をやった。二度とも小三元混一色で、初めの満貫は白[パイ]と發[リウハ]をポンして、索子を吃[チイ]をして、手の中には索子の順子[シュンツ]があり、風牌[ホンパイ]の単吊[たんチャオ]で待っていた所へ中[ホンチウ]を模したので、どうせ包[ホー]なんだから同じことと、中[チウ]の単吊[たんチャオ]に変えると、忽ち中[チウ]を白摸[つも]って、恰度[ちょうど]満貫になった。この時に対[トイ]面に浜尾四郎さんがいた。浜尾さんは決して満貫を食ったからではなく、所用の為中座して、代りの人が這入ったが、北風[ペーホン]の荘家の時に又小三元混一色が出来た。
 然し、愉快な和了[ホーラ]と云うのは、満貫とか、満貫に近い大きな和了[ホーラ]ではないと思う。そう云う大きな和了[ホーラ]はむしろ自然[ひとりで]にと云って好[い]い位に出来るので、格別に苦心はない。必要な牌を止めて、必要でない牌を捨てているうちに出来るものである。それよりも、他家の大きな和了[ホーラ]を押えて、その頭を刎[は]ねて和了[ホーラ]した時こそ、真に愉快な和了[ホーラ]と云わなければならぬと思う。
 長尾克氏川崎備寛氏と私と或る女性と囲んだ時に、その婦人は翻牌を一つポンし筒子[トンツ]を一つ副露[ふうろ]して、余程大きな手らしく、終り近く北風[ペーホン]を打った。長尾氏が北々[ぺーぺー]で早速北[ぺー]をポンして、持ちあぐねていた中[ホンチウ]をサッと打ち出した。婦人の和了[ホーラ]は三翻[ファン]である。彼女は大喜びで牌を倒[とう]した。所が、彼女の上にいた私はかねてこの事を察して、中[ホンチウ]の単吊[たんチャオ]で待っていたので、見事頭を刎[は]ねて了った。
 大阪時事の麻雀で久米菊池佐々木の諸氏と囲んだ時、東南戦で少しメリ込んだ私は、西風戦で西々[シーシー]の時、西[シー]の暗刻[あんこう]が出来た。どうしても和了[ホーラ]せずんばあるべからずである。この時下[しも]家の菊池氏は五八筒[トン]の聴牌をしていた。私は五筒[トー]単吊[チャオ]にして、荘家の久米氏の五筒[トー]で、下[しも]家の頭を刎[は]ねながら和了[ホーラ]した。これなどは他家の大きな和了[ホーラ]を押えると云うのではないが、よく自家の大きな和了[ホーラ]を遂げたので、愉快な和了[ホーラ]である。
 最近の愉快な勝負は名古屋の新愛知樓上[ろうじょう]で打った戦いである。相手は李天公天忠定川崎備寛の諸氏だったが、四圏戦で私がトップで三百余点、川崎氏がラストでマイナス二百点と云う真に紙一重の勝負で、誰でも最後に和了[ホーラ]したものの勝[かち]だった。私は終局近く白板[パイパン]の暗刻を持って和了[ホーラ]出来たのが勝因で、而も、北風[ペーホン]の最後の荘家では公九牌九箇[こ]を持って、傷つかずに逃げる事が出来たのだった。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
麻雀のルールを知らないと全く面白くないと思う。ルビは少し妙的だが、原文通りにした。「ポン」という漢字は石偏に並だと思うが、無いのでカタカナにしておいた。