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三つの感想

甲賀三郎

再び新聞紙に望む
 最近の新聞紙上に、不良少年の慈父と仰がれていたという捜査課不良少年係の部長刑事某君の死が報じてあった。この写真を見て、微笑まれた事は、この人は私や海野十三君などが麻雀事件で、警視庁に呼ばれた時に会った人で、殊に海野君は直接調べを受けたのだった。この時に、お役所式の融通の利かない好例であるが、私達は不良少年を取調べるのと同じ形式で取調べられて、調書の用紙が不良少年用のものだった為に、父母は何をしているかとか、兄弟姉妹はどうかという事を聞かれた。その中[うち]に学歴という項があったが、私も海野君も兎に角大学を出ているので、今まで不良少年係に調べられたうち、学歴ではレコード破りだろうと思う。そんな事を思い出すと、死者に対しては十分の弔意を表しながらも思わず微笑まれるのだ。
 この時、むろん海野君も私もすぐ疑[うたがい]が晴れて帰された。私は前にもいったが、何か犯罪の嫌疑を受けて警察に出頭を命ぜられた時に、身に覚えがなければないほど、進んで出頭すべきだと思う。只、この時に警察で恰[まる]で刑が確定したかのように発表されたり、新聞がそれをそのまま伝えて呼び出された人を罪人扱いにするのはよくないと思う。其後少くとも東京朝日だけは、呼び出された人を罪人扱いにせず、何々の嫌疑で召喚されとか、留置されたとか書き、警察の発表をそのまま書く時は、必ず警察の発表によればと書加えているのは、大へんいい事で嬉しいと思う。麻雀事件の時も、私達の迷惑殊に海野君のそれは非常なものであった。剣よりも強い力を持つ操觚者[そうこしゃ]の考えて欲しい事である。

学制改革
 之も最近私の所へ某官立専門学校の生徒が来たので、もう休みかと驚くと、三月の三日から四月の九日まで春休だという。何でも計算して見ると日曜祭日休暇を除くと、一年の授業日数は百八十五日だという。私は只この事実だけ多くの人に告げたいと思う。
 外国の例は知らない。又休暇が学生生徒に利益をもたらすであろう事も信じて疑わない。然し、目下の国情に照らして、親の粒々辛苦の脛を噛[かじ]っている学生生徒の身分として、実際に学問に費[つか]う時間が、一日僅々五六時間で、一年の半分しかないという事はどういうものだろうか。もっと授業を充実さして、年限を短縮することは出来ないものだろうか。
 私の単純な考えでは、もう少し教える学科を整理して、年限を短縮して、遅くとも徴兵適齢位で、大学の課程を終るようにするのが、刻下の急務ではないかと考える。午前と夜間に学科を課し、午後は運動に使うようにしてもいいと思う。日本人は全体として殆どすべて夜も働いているのだから、学生生徒の先生だけが、働く時間が少い事もないと思う。
 現今国防費が多いというので問題になっているが、なるほど、議会に出る予算では国防費が断然多いが、もし地方費支弁のものや、個人の懐中から出るものを計算に入れれば、恐らく教育費が国防費より遙かに多いのではないかと思う。私は平和論者だけれども、平和を維持する為に、過大と思われるほどの国防費は止むを得ないと思う。それに反して、過大な教育費はむしろ国に害があると思う。
 この点切に識者の一考を煩わしたいと思う。

娯楽文学
 文学青年的な人達は芸術に憧憬[あこがれ]と誇りを持ち、娯楽文芸に堕することを潔しとしない。娯楽文学が果して純文学の堕落であるかどうかは別に議論のある所だが、文学青年的な人はそう思う傾向があるのを否めない。私はこういう傾向の人達は、純文学に行くのが当然の道だと思うが、いろいろの都合で純文学に行けないで、娯楽文学に向ってくる。然し、何分堕落だと思う為に、それを正義化し自己満足をする為に、娯楽文学を芸術と呼ぶべく理論づけようと試みる。むろんこうした試みは必ずしも無用の事ではないが、そのスタートに於て不純の動機があっては面白くないと思う。自ら娯楽文学に行く以上は、娯楽文学家の態度になり、最もいい娯楽文学を著わそうと努力すべきではないかと思う。自ら軽蔑しながら、それを棄てないのは不純であり、況やそれを強いて理論づけようとするのは尚いけないと思う。
 探偵小説壇にはこうした傾向の文学青年が一番多いように思う。こうした人達は、芸術至上の立場からなら、純文学に志すべきだし、探偵小説を書こうとするなら、最もいい探偵小説を書くべく努力すべきだと思う。探偵小説が純文学の範疇に這入り得るという論者は、宜しく、自分なり他人なりのそうした作について、実際的に論じて貰いたい。
 私は飽くまで、探偵小説は芸術に近づける事は出来るかも知れないが、決して芸術になり得ないという自説を固持する。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
備考で書きたい事も多いが調査不足なので控えておく。とはいえ、気になるのは、麻雀事件とはやはり賭博だろうか?