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敗残の独逸帝国
 =国力回復の為に彼等はどんなに節約をしているか=

在伯林 春田能為
  

 ◆ハムブルグより伯林へ
 三月三日ハムブルグに初めて独逸の土を踏んだ。停車場[ステーション]よりホテル迄自動車に乗って、さて運転手に英貨志[シルリング]で払おうとすると、彼は手を振って独逸の金を請求した。之れ劈頭に驚いた所である。私は日本ででも、又アメリカででも、又イギリスででも、独逸国内では自国の金よりも外国貨幣の方が流通し、反[かえ]って自国の金よりも喜ばれると聞いていたからである。殊に僅[わず]に一ヶ月以前紐育[ニューヨーク]で、独逸よりアメリカ経由で日本へ帰る人にもそう云われたのであった。ある人からは独逸の商館などで弗[ドル]の紙幣[さつ]を出すと、オフィス中の女事務員が寄って来ると云う話を聞いた。然るに運転手は独逸の金を請求したのである。驚かざるを得んのである。ホテルにある事五日分った事は独逸の金は紙でこそあれ――不換紙幣でこそあれ――レンテン銀行なるものが不動産を担保に紙幣を発行しているのだそうだが、何人が十マークを銀行に持参して之に相当する不動産と交換する事が出来ようぞ。――金マークと称し、黄金と同様の価値があるのである。銀行、商店、ホテル、いかなる所でも、また何と云っても、アメリかの弗[ドル]に対して、四・二マーク英貨磅[ポンド]に対して十八マークにしか換えてくれぬ。金本位より行く時は、邦貨十円は二十・二マークであらねばならない。私の入独当時は十円は略[ほぼ]十九マークに換えられた。今日では悲しい哉、十六・四マークである。斯くて国内の貨幣価値は旧時代に復活した。但し独逸国内にてレンテンマークと称するものは――ハムブルグ市にては別に金マークなるものが流通している――国外には通用せぬ。外国との取引は尽く外国貨幣を以ってする。例えば余の如き外国人が、書籍を購入するとする。小部であって日本に送らずにその儘持帰る場合にはマークにて差支えない。然し書店より日本に送らせる場合には、即ち外国との取引となって磅[ポンド]、又は弗[ドル]、円等の外国貨幣にて支払らわざるを得んのである。
 既にしてハムブルグを辞しベルリンに向かった。急行列車にて走る事四時間半、その間は坦々たる平野である。ベルリンは茫漠たる広野の中に、欧洲中ロンドンに次ぐ大人口を有して、その壮麗なる姿を広げていた。街路は塵一つ留めず清められていた。ウンターデンリンデン街、フリードリッヒ街、ライプテッヒ街の昼は、忙[せわ]しく行き交う人の群れで肩々相摩[けんけんあいま]していた。夜[よ]のポッダーマー広場、キウルステンダムの大通りは、そぞろ歩きの男女で充たされていた。幾つかの大きなレストーラントは食事時はいつでも満員であった。夜はオペラ、芝居、寄席[パリエテ]、カフェの数々、それはいつでも人で溢れていた。春未だ至らず、二重窓は堅く閉められて、四月初めには雪さえ降ったけれども、夜十二時になっても一時になっても、表通りは人通りが絶えなかった。
 
 ◆山を求める心=ラインの春
 四月半[なかば]、私はベルリンを立ってドレスデンに向った。汽車にて走ること三時間、矢張り坦々たる平野であった。折柄の日曜に入場無料である此処の有名な美術館は人で群れていた。ドレスデンから、旧ボヘミヤ王国新[あらた]に興ってチェコスラバキヤ国と云う、この国の首都プラハに向った。私はこの路が非常に楽しみであった。何故なら私は母国を出て百五十日サンフランシスコに外国の土を踏んで以来山を見ない。アメリカ大陸の横断は最急行列車にて四昼夜遂に山らしいものを見なかった。ロンドンにも山はなかった。私は山が見たかったのである。この国境こそザクセンのシュワイツ(英語にてサクソニイのスウィス)と呼ばれる所必ず山が見られると思ったからである。国境を越えて汽車のエルベ川に沿うて走る所、実に故国を懐[おも]うの情切であった。例えば木曽路の旅の如く、山城大和の国境の旅路のようであった。然しながら、木曽、木津の谷はもっと深く、山はもっと険しい。ここの山の勾配は実になだらかであった。さればこそ、エルベ川は悠々としてこの山脈を貫いて流れているではないか。
 オーストリアの首府ウインにあること一週間、再び国境を越えて独逸聯邦の雄バイエルンに入った。国境に接してザルツブルグと云う小都会がある。町は中央にドナウの支流である清流を挟み、三方丘陵に囲まれた実に景色のよい静かな所であった一つの丘陵の中腹にある古城の塔に昇って、案内人がかしここそバイエルンなりと指さす所を見れば、三方山のうち一方切れたる所に、茫々たる平野が果てしもなく開けているではないか。ザルツブルグより急行列車にて三時間半、バイエルンの首都ミウンヘンに着く。ミウンヘンこそ山を眺められる町であろうと予期していたが、予期は又もやはずれて、平野の真只中にあったのである。ミウンヘンは麦酒に名のある所、大きな酒場[バー]は麦酒を飲む人で溢れていた。大通りはやはり忙[せわ]しい人の群れが行き通っていた。
 ミウンヘンよりストットガルドを経てカールツルーヘにてライン河畔に出る。
 四月二十五日私はこのライン地方で初めて春に遭った。それは美しい春であった。丘を埋ずめるように、赤と白のチウリップに似て其の大さ拳大の花を一面につけたチウリップ樹が咲き誇っていた。街路にも庭園にもチウリップ樹があった。その他桜、桃、山吹に似た花が咲き乱れていた。間服[あいふく]と云う複雑なものを持たぬらしいここの人々の服装[なり]はもう夏であった。女は白い服に、中には麦藁帽を被っていた。
 分けても美しいのはハイデルベルグの春であった。ネカールの流れには若い男女がボートを浮べていた。山腹にある廃墟は夕陽に輝いていた。
 ネカール河とライン河の出遭う所にマンハイム市がある。マンハイムより一時間フランクフルト(アムマイン)市に出る。この辺一帯は工業地である。フランス軍の占領する所であろう。小さいフランスの兵隊が銃を持って、所々に立っていた。官衙[かんが]の前には鉄条網が張られていた。然しそれはもう錆びていた。町の人々は相変らず賑かな通りを忙[せわ]しそうに歩いていた。飾窓[ショウフェンスター]は美々しく飾られていた。四月の末私は再びベルリンに帰った。ここには未だ春が訪れない。長い冬を、耐え切れなくなった人達は、北の国の常とて、もう午後八時過ぎまで明るい外を歩き廻っていた。レストラント、カフェは以前に増した混雑であった。ベルリンは実に気持のよい街だと、私は思う。整然すぎると云う非難はある。然し、ニウヨークのそれの如く、しかく無趣味に劃一的ではない。ロンドンの蕪雑はとても比べものにならぬ。家々の構造も採光防寒実によく行き届いている。どの家にも一寸した彫刻があり公園、広場には無数に大理石の像がある。其他多数の美術館博物館、劇場等が処々に配置せられて、壮麗な建築を誇っている。之はベルリン丈[だけ]ではなかった。ミウンヘン然りドレスデン然りであった。よく整った美しい街路を無数の男女が手をとり合って歩るいているのである。
 之が私の見た独逸であった。私は戦敗れて尚斯くの如き独逸の富に驚嘆する。独逸帝国起[た]って五十年どうして之だけの富をなしたのであろうか。私は静[しずか]に考える。

 ◆独逸工業の将来
 私は静[しずか]に考える。
 独逸帝国がかかる富を蓄積し得たのは決して偶然ではなかった。少くとも五十年の長い間の努力であった。独逸国内に産する農作物は、到底六千萬の国民を養う事が出来なかった。独逸は国を挙げて工業に力を尽したのである。一九一三年(大正二年)に於ける総輸出額五十億円中、鉄及鉄器の輸出は十億円であった。人造染料のみにて一億二千萬円を算した。
 国民は質朴剛健にして、研究心に富み、刻苦奮励、遂に『独逸製[メードインヂャーマニイ]』品を以って世界を征服し、よくこの富をなしたのであった。欧洲大戦に国力を傾倒し、列強を相手に戦う事数年、米国の来援に力屈して降を軍門に乞うたけれど、又有史以来例を見ないマークの大暴落に、一時民心は動揺したけれども、マーク安定以来頓[とみ]に国力を恢復して今日の状態となったのである。欧洲大戦開始前のベルリンの栄華はいかばかりであったかと思う。
 さりながら戦争によって受けた独逸の打撃は決して僅かなものではない。エルザス・ロートリンゲンの喪失によって独逸の鉄鉱を失った。工業製品の世界各地に搬出すべき商船は殆ど全部没収せられて仕舞った。軍器・馬匹・石炭の夥しき数量を聯合軍側に引渡さなねばならぬ。斯くの如き巨額の償金を支払う事は到底独逸の耐えざる所として、独逸は遂にその実行を肯じえない。仏軍はその保証として、ルノア地方一帯の工業地を占領した。これ又独逸にとって大なる打撃である。英米二国の意見も又償金の額を過大なりとし、独逸を滅亡せしめざる範囲にて之を支払わしめようとする。
仏白二国は独逸より償金を得ざれば自国の恢復が困難である。聯合国側の独逸に対する政策がいかに決定するかは未決の問題であるが、独逸を滅亡せしむる事は出来ないと思う。むしろ独逸工業を盛大ならしめてその利得を取り立てるか、或は進んで独逸工業管理を聯合国に収めるの方途に出るであろう。二途いずれにしても独逸工業は最早今日は独逸国自体の収入に宛てる事は出来ない。斯くの如くんばその能率の減退するは自明の理である。然しながら独逸はその国民を遊ばせて置く訳に行かぬ。仕事を与えねばならぬのである。例え利得が自国の利益にならぬまでも、工業を廃止する訳には行かない。又聯合国側も工業利得の全部を取立てる事も出来ないであろうから、独逸も又自国の工業を滅ぼす訳には行かない。斯くて独逸工業は戦前の能率は挙げ得ないまでも、必ず存続すべきもので、聯合国側の政策次第では盛大に向うべきものと考える。現に今日のマーク安定も工業家の保証する所であり、独逸国内に好景気到来せるも亦工業能率の復活し来りたるによるのである。
 
 ◆独逸の食糧問題
 ここに独逸の考えねばならぬ事は食糧問題である。独逸工業厳として存し、この製品の輸出食料の輸入を償うて余りある時代は必ずしも緊急なる事ではなかった。いやその時代に於ても独逸の農業は世界に誇るに足る完備せるものであったが、その産出額をより以上に増進すべく、しかく積極的の必要はなかったのである。然し今日時代は一変した。工業よりする利得は多く自国の手に収める事は出来ないのである。独逸は食糧の自給を計らねばならぬ。之を国防上より見るも自国の領土を以って、自国民を養う事は誠に大切なる事である。独逸の識者は食糧自給の方途について専心研究をしているのである。
 独逸の食糧自給は果して困難なる事であろうか。私はそうは思わない。独逸の国土は戦前は朝鮮を除きたる我[わが]日本より稍[やや]大で、今日は朝鮮台湾を除きたる我[わが]国土に略[ほぼ]等しい。然しながら、既に述べたる如く、独逸は一大広野である。耕地は全土の七〇%に及んでいるのである。之を我国の耕地全土の一三%に過ぎないのに比べると正に五倍するのである。然し我国は気候温暖にして、加うるに農民の勤勉なる事世界にその比を見ない。その為めに、土地を年二回耕作する事が出来る(。)之を計算に入れるとしても尚独逸は我国に三倍する耕地を持って居るのである。もし独逸農民にして我国の農民のそれの如く勤勉であるならば、食糧の自給は易々[いい]たる事と思う。独逸国民を見よ。彼等は戦[たたかき]敗れて莫大の償金を負い塗炭に苦しむと云う、而も都会に於ける商店を見よ。朝は九時乃至十時頃より店を開き夜[よ]は六時乃至七時に店を閉める。日曜は無論全部休みである。甚しきは一時乃至三時を昼休みとし店を閉じる。夜の娯楽場は遅くまで人で埋まる。農民はいずれの国に於いても、都会人よりは勤勉であり、独逸又然りであるが尚日本に及ばざる事甚だ遠いのである。独逸農家は一戸当り約五・五町歩の耕地(牧場を含む)を有し、五町歩乃至乃至二十町止[ぶ]を有する農家及二〇町歩乃至一〇〇町歩を有する農家は各全耕地の三分の一を有し、残りの三分の一の耕地は一〇〇町歩以上を占むる大農と五町歩以下の小農が之を所有している。即ち土地の大部分は中農によって占められるのである。之を我国の農家各戸当り一町歩に充たないのに比すると非常な差異で、農法も多く牛馬を使役し、筋肉労働の如き我国農夫と同日の比ではない。
 一九一三年の統計を見るに、穀類の収穫一町歩当り二・二噸[トン]馬鈴薯一五・九七噸[トン]であった。戦時中は田園荒廃し収穫大いに減じたが、戦争終結後次第に恢復して来たのであった。一九二二年は穀類は全国的に不作であって、一町歩当り一・三噸[トン]であった。然し馬鈴薯の収穫は大いに増加し、一町歩当り一四・七噸[トン]となり略[ほぼ]戦前の数字に近づいて来た。之を我国の一町当り米の収穫二十石とし、一石四十貫として計算するに、(之は私の専門外の事で委[くわ]しい記憶を持たず、加うるに異郷で何の参考に資するものがないので、大差なきを期するが誤っている場合は叱正を乞う)一町歩約三噸[トン]となり、独逸の夫れよりも遙に多いのである。故に独逸農民が日本の夫れの如く勤勉になるに於ては食糧の自給は充分遂げられると思う。加うるに窒素肥料の自給には既に成功しているのであるし、国民一般が作るに易く且つ収穫多き馬鈴薯を喜んで食するに於てをやである。更に有名なる学者の間には、作るに易く収穫多く且つ栄養価値多き大豆に着眼し、之を栽培する事と食用に供する事とが、盛[さかん]に研究せられているのである。この事実は目睫[もくしょう]の間に大豆の産地を控え、尚食糧の不足に苦しみつつある我国の軽々[けいけい]に看過すべき問題ではない。

 ◆顧みて日本を想う
 恵まれざるは我国である。農民諸君の粒々辛苦に至っては、切に感謝の外はない。然しながら諸君よ。日本はその本土及領土を以って、日本国民の全部を養わねばならぬ。人、よく工業立国を説く。その言う事安くして、何ぞ行うの難きや。工業を以って我国を養わんとするには、今後少くとも百年の年月を要する。その間をいかにして暮そうとするか。独逸国の工業と雖[いえど]も決して偶然に起ったのではない。もとより独逸国民の努力多きによる事無論であるが、少なからぬ鉄鉱と石炭に恵まれた独逸は、先ず鉄工業を起した。化学工業は之に附随して起ったのである。製鉄工業なくしては、染料工業はあり得ないではないか。我国天恵に乏しくして、既に独逸に五十年先じられた。このハンディキャップをどうして取り返そうとするのか。一国の工業と雖も、その国の農産物鉱産物の如き土より生れ出ずるものを基とせずしては、決して成立しないのである。我国は四方環海の国であるから、勉めて海産物を利用する事は必要であり、空気よりする工業即ち窒素固定工業の如きものは一日も早く成立せしめ、窒素肥料の独立を計る事の緊要なるは論を待たない。然しながら空気は全世界に充満し居るもの、之を原料としたり製品を外国に輸出すると云うが如き事は、電力が他国に比して非常に安価ならざる限りは、甚だ困難なる事であろう。窒素工業は要するに輸入を防ぐ程度に止まるべきものと私は見る。されば外国に輸出して国富に益せんには、自国の土より生まれるものを以ってすべき事自明の理であろう。
 人、欧米各国を視察して其富多きに驚嘆する。恨むらくは多く専門に捕われ過ぎる弊である。鉄道を視察する人は、欧米の鉄道の発達せるに感じ、直ちに我国に鉄道網を敷き広軌とせん事を説く。美術家は欧米の壮麗なる美術館の完備せるに羨望し、之が建設を説く。化学工業家は、独逸のそれの発達せるを見て、我国も又化学工業にて立つべきを説く。皆不可である。私と雖も、鉄道の発達を希望し、工業立国は私の専門に属し、最も喜ぶ所であり、美術館図書館も亦熱望する所である。悲しい哉日本は乏しい。日本は先ず富を作らねばならぬ。富を作るには交通を発達せしめ、工業を隆盛ならしむる事当を得たるものであろうが、それには資本がいる。吾人は先ず消極的に富を作らねばならぬ。然る後に之を利用して積極的に富を作るのである。
 吾人は我本土及領土より産するものを喰い尽す事は出来ない。斯くてはいつまで経っても富は蓄積出来ない。況んや今日の状態の如く我が国内に産するものを以って、全国民を養う事が出来ないようでは心細い限りではないか。吾人は余さねばならぬ。

 ◆富と食糧の改良
 私は欧米各国を視察して我国民の勤勉なる事と節約なる事を切に思う。加うるに我国民は頭脳鋭敏である。漢字を覚え外国語を覚える。然しながら其の勤勉其の節約に頗る無駄の多いのを遺憾とする。即ち能率が頗る悪いのである。諸事の準備の為めにどれ丈[だけ]の時間を浪費するか。戸毎に米を磨[と]ぎ、朝早くより起きて之を炊く。食事其のものにも頗る無駄が多い。食う事をせざる魚の頭に味をつける。食い残しの骨は棄て去る。尤も甚しき欠点は貯蔵し易き状態にある食事を嫌う。干[ほし]うどんを排斥し生うどんを食し、生魚[うお]を好んで、干魚缶詰魚を好まない。(私は農村諸君中には多数又は都市中の人達にも多く既に私の云おうとして居る事を実行して居られる方があると思う。之等の人[ひとびと]には感謝の外ない。私の云おうとする所は未だかかる事を実行しない人達に対するものと御解釈願いたい。)更に悪いのは、栄養よりも、手数よりも趣味を重ずる事である。欧米の国民殊にイギリス人は、本土の食料乏しき為めに、栄養価は充分あるであろうが、頗る簡短な料理法で頗る無味なるものを食う。味覚の鈍感なるにはあきれざるを得ない。独逸は戦後疲弊の為めもあるが、又頗る粗食でベルリンの如きは海に甚だ遠い為めに、魚類の如きは到底日本人の口にし得ざる程古きもの多く、一般は干魚缶詰魚を用いている。料理法も又頗る簡短である。我[わが]国民は如何。我国民は概して聴覚は鈍であるが、味覚は甚だ鋭敏で、食物は趣味を先とし、料理法又頗る複雑である。魚[うお]類は新鮮なるを貴[とっと]び、高価を払うを辞しない。冷蔵肉、冷蔵魚さへも排斥する。
 我[わが]国民宜しく栄養価値に重きを置き無味なるものを辛抱して食せざれば、我国いずれの時に富を蓄積し得ようぞ、魚[うお]類を肥料にするの愚を止めて之を貯蔵し、作るに易き馬鈴薯を食せざれば不可である。既に前掲の如く独逸にては一町歩より穀類一・三噸[トン]に対して馬鈴薯は十五噸とれているではないか。乾燥量より比較するも四乃至五倍の収穫は確かである。もとより馬鈴薯は拙い。米とは比較にならぬ。然しそこが辛抱である。現に独逸人は馬鈴薯を常食にしているではないか。我国民の米[べい]食に執着強き私の最も憂うる所である。米は作るに難く、保存貯蔵に耐え難く、調整力少なき為めに価格の変動甚しいのである。農村諸君にして既に白米以外のものを混食して居られるのは私のよく知る所である。白米のみを食せられる諸君よ。願くば米の代りは馬鈴薯、麦、外国米、魚類、豆類なんでも食べる所の習慣をつけられたい。斯くすれば米が安くなり、米が残る恐れがあって、農民が困ると云う議論があろう。米が残れば外国に売る。売れなければ売れるように半製品にする。之が工業の役目である。現に欧米にて、米を消費する量は莫大なものである。日本産米が賞味せられるようにすれば好いのである。いよいよ売れなければ米[べい]作を止めて、漸次作り易い収穫の多いものに替える。よし米価が下っても米価だけが下るのではない。他の物価も共に下るから生活は楽になる。食糧自給問題と関聯[れん]して、食糧そのものの改良は諸君に真面目に考えて貰いたいのである。衣類住居に就いても論じたい事が多々あるが他日に譲る。要は今日の日本は無駄を排し、忍んで高価につく趣味を止め以って金を拵らえねばいけないのである。

 ◆独逸国民の節約振り
 話は独逸に戻る。私はこの稿の別[はじ]めに敗残の独逸人が日本人よりも遙に遊び歩いている事を説いた。然しながら仔細に見ると独逸人は非常な節約をしているのである。各人の収入は概ね戦前より二割を減じている。生活費のうち、家賃は政府の政策によって戦前の半額になっている。この点は我国と非常に差異ある所で住居に於ては独逸人は楽をしている訳である。衣は戦前の二倍、パン及馬鈴薯は戦前と同様で肉類バタは三割乃至四割の騰貴、燃料は七割の騰貴である。かるが故に今日の独逸人は第一に衣類を節約しなければならぬ。さればこそ、大路を歩く雑踏の群に、アメリカであるならば美々しく着飾ってと云わねばならぬ所を、独逸ではこの形容は用いられぬ。継の当った外套、着古した着物を平気で着て歩るいている。新しきものは多く木綿製である。絹を着て歩く女もあるにはあるが、之とても我国の如く多種多様に染め出[い]だしたるものを二重三重に纏うのとは比較にならぬ。食物はパンと馬鈴薯を常食としなければならぬ事前掲の統計の示す所である。只この国人永年の習慣として夜は夕食をとると宅[うち]にじっとしていられぬ。男女手を取って外に出る。カフェに入って一碗のコ−ヒーを命じてチビチビ嘗めながら音楽を聞いて数時間を過すのである。少し余裕のあるものは、レストラントに夕食を認[したた]め、或は芝居、或は活動写真を見る。彼等は我が家を寝室と心得ている。寝る時に使用する丈[だけ]で、暇さえあれば外に出て、衆と共に笑い興じているのである。衣服食事等の手数が頗る簡単であり、着換とか床の間の掛物とか云う余分なものを要しない。彼等は非常な節約をして、殊に女は英米の女と異り服装[なり]を構わずよく働く。籠を下げて市場へ買物に出かけ、或は自転車に乗って用達[た]しに出かける。昼飯[はん]は大抵公園のベンチに腰をかけ、袋の中からパンを出して囓る。少し好[い]いのはカフェに入り一杯のコーヒーを注文して御持参のパンを喰べる。ベルリン市の大百貨店ウエアトハイムの食堂に於ても多くは弁当(と云っても決して御馳走ではない)御持参ですましているのである。斯くの如く節約して、少しく余裕が得られると、男女手をとっていろいろの娯楽場に出かける。金がなくても散歩だけはする。冬期と雖も炬燵に囓りつくの愚はしない。斯くの如き独逸の節約振りとその元気とは将に我国民の習得すべき所である。
 多くの日本人は、外国の生活が頗るあわただしく趣味に乏しいものであると云う。私もそう思う。日本人の生活には趣味がある。裏店[うらだな]に住っていても、猫の額の地面に朝顔を作り或は畳の上にあぐらをかいて、初鰹に酒杯を挙げる趣味はある。然しながらかかる趣味は日本が外国と交通なく自国のみにて、自給自足していた時代の遺物で、今日は残念ながらこんな事はしていられないのである。日本人から着心地のよい日本服を奪い、畳と米とを取り去り、新鮮なる魚を前に祝杯を傾ける事を禁ずる事は、いかにも忍びない所である。なぜなら之が貧しい日本に於ける唯一の楽しみであるからである。然しながら吾人は之に耐えねばならぬ。我等は実質を重んじ、虚飾を棄て、味覚を鈍ならしめ窮屈を忍んで生活上の改善を計らねばならぬ。そうして我等の土地から得るものを残さねばならぬ。富を作らねばならぬ。我等の富が蓄積せられ資本化せられた時、それは我国の世界第一の立派な国となる時である。頭脳明敏なる国民、勤勉よく困苦に耐え得る国民、道徳観念強き国民、それが富を持った時こそ、世界を指導する国民となり得るのである。

 ◆独逸は恢復しつつあり
 独逸は恢復しつつある。独人は口を開けば仏国の圧迫を云為して悲観論を唱えるが、実は着々その根[こん]強き力を持って恢復しつつある。抵抗力を持たぬ国であるから聯合側の武力圧迫には耐えられぬが、経済上の圧迫には相当の反溌力を持っている。聯合国のやり方次第では自暴自棄に陥るかも知れぬ。然し聯合国の方で独逸を滅亡せしめざる程度にゆるめる時は、必ずジリジリと恢復する。之仏国の恐れる所である。斯く独逸の根強き力の根源はこの国の経済が『残る』国であるからである。経済がプラスで表われる国は必ず隆盛になる。独逸は土地を失い、鉄鉱を失い、工業地域は占領せられたけれども、尚不断の努力と科学の応用により、自個の土地のみを以って、自国民を養い、尚余そうとしているのである。
 諸君よ。独逸の起否如何は、もとより間接には影響はあるが直接我国と何の関係もない事である。吾人の学ぶ可き点は独逸が如何にして困苦と闘いつつあるかと云う事である。諸君よ。乞う次代の国民の為めに、我等の愛する子孫の為めに率先生活改善を断行し、得安きもの、安価なるもの、手数少きものを標語として、我国の土地より生ずるものを残し、及び直接の土地よりの生産に従事する人達の労苦を国民挙[こぞ]って分担せられん事を切望してこの稿を終る。(一九二四、五、一四ベルリン・シエーネベルクの客舎にて。)


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
(。)は私が付けた補助的な句読点。