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ホームズ記憶術

甲賀三郎
  

 人間の身体の諸機関の微妙な働きには、所謂造化の妙として感嘆の他はないが、中にも頭脳の働き、例えば記憶の作用など、いかにも霊妙極まるものだと思う。ワトスン君の記述する所によると、シャロック・ホームズ氏は頭脳は倉庫のようなもので、無暗[むやみ]にものを詰めては不経済であるから、自分は探偵に必要な事以外は努めて記憶しないようにしていると云ったそうだ。太陽系の事を知らないでワトスン君を呆れさせたのは、つまり彼のこうした持説に依るのである。
 頭脳倉庫説のシャーロック・ホームズ氏は、だから、いろいろのものをチャンと整頓して頭の中に入れ、索引[インデックス]も出来ていたようだが、普通の人間の記憶は頗[すこぶ]る雑然たるものである。が、それにも係らず、例えば、思い出す瞬間までは十数年も恰[まる]で忘れ切っていた事が、パッと浮き出して、それが活々[いきいき]と新しいもののように感ずるのは、何とも不思議な作用と云わざるを得ない。
『私は覚えが悪いから、何でもノートにしておきます。』
 之は今から二十五年ほど以前、神田の正則英語学校で英語を勉強していた時分に、和文英訳の課題の中にあったものだ。――それを記憶しているんだから、僕の頭もソウトウだと思う――余談だが、正則の校長の故斎藤先生は英文法の大家で、和文英訳は最も得意とする所で、一見むずかしそうな和文でも、案外簡単に英訳が出来るものであると云う持論から、右に掲げた課題も中学二年位の程度の生徒に課したものである。この他にも、
『鶴の頸長しと云えども、之を断たば悲しみなん』
 なんと、近松の国姓爺合戦[こくせんやがっせん]にある文句を、やはり二年生位に訳させて悦に入っていたものだ。之は斎藤先生の云わば道楽だったに違いない。

 余談は置いて、本論――と云うほどの事でもないが、前の続きに入ると、僕は、つまり前の注釈にも書いた通り、割に記憶がよかったが為に、ノートを作ると云う事が不得手で、上の学校へ行っても殆どノートと云うものを作らなかった。が、この頃はもういけない。
 いけないと云う年でもないのだが、記憶力と云うものが衰えて、却って二十年も以前の事はよく覚えているにも係らず、近く聞いた事は直ぐ忘れて終う。
 つまり頭の倉庫は旧品で一杯で、もう新品を収容する余地がなくなっているに違いない。学校にいた時、ある老教授が、『どうも覚えが悪くなったので。』と云って、何でもノートに写し取っていたのを、秘かに嘲[あざ]けった事もあったが、今にして老教授の心境がよく分るのである。
 尤も、ノートをさえ取って置けば、それでいいと云うのでもなさそうで、僕の親しい友人で、世話好きで従って非常に忙[せわ]しい男がいるが、先年彼は満洲に行く事になったので、友人に催促して送別会を開いて貰う事にして、日取も自分の都合のいい日を極めて、いつもこの男の習慣通り、チャンと友人の前でノートに書き入れたのである。
 友人は他の友人にそれぞれ(*)送別会のの通知を出して、その男は無論彼の方から指定した位だから、当日来るものと、少しの心配もしていなかったにも係わらず、その男はとうとう姿を見せなかったのである。
 ノートにまで記入して置きながら、どうしたのかと云うと、彼はノートを見るのを忘れたのだった。
 今の話とは行き方を異[こと]にしているが、或る有名な洋画家の話で、仲間の画家が洋行するので、その送別宴を開き、それぞれ通知を出した所が、当日は非常に盛大で、いつに似ず多数の仲間がやって来たが、どうした事か肝心の送別される本人が一向姿を見せないのだ。
 とうとう最後まで主人公なしと云う会になったが、それは後に判明した所によると、主催者が本人へだけ通知をするのを忘れていたのであった。

 さて、再び前の話に続けるが、この記憶と云う奴は、甚だ気紛れ者でいついかなる時に、ヒョッコリ蘇[よみがえ]って来るか分からないのである。
 探偵小説なんかで、在来の筋を焼き直したりすると、読者は初めのうちは気がつかないで読んでいるが、そのうちだんだん気がついて来て、ハテナ、之は一度読んだぞ、と直ぐに思い出されて終うのである。
 だから作家の側から云わせると、探偵小説の読者は健忘症の人がいい。だが、困った事には、探偵小説と云うものは、前に書いてあった事を明細に記憶している人でなければ、読んでも一向に面白くないし、従ってまた興味もない訳で、健忘症の人には向かないと云う事になる。

 いずれにしても、ホームズ式記憶法、即ち必要な事はしっかり記憶して、必要でない事はどんどん記憶から追い出して終うと云う事は、もし会得出来たら、中々いいものだと思う。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
八段目の(*)の《それぞれ》、これは原文では《それ\/》であり、つまりは《それそれ》であるが、恐らく《゙》を付け忘れた誤植と判断されるので、このように修正しておいた。("\/"は踊り字の代換えです)