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神に背を向けた男
  ――肌寒きこの惨劇――

甲賀三郎
  

 一九三一年八月五日の朝、ジョーヂア州のリチモンド村の、小流に沿うた林道を、黒坊[ニグロ]の農夫デビド・スターヂスは穀物の袋を肩に担いで、「アラビヤの唄」かなんかを口笛に吹きながら、威勢よく歩いていた。
 やがて彼は突然立止まった。
「オヤ、水兵さんじゃねえか酔払って寝てんのかな。どうも可笑しいぞ。モシモシ水兵さん、いいのかね、船に帰る時間が遅れるよ。」
 そういって、彼は道の傍らに仰向きに倒れている若い水兵の傍に、オヅオヅと寄ったが、 「た、大へんだ! 人殺し!」
 と叫んで、担いでいた穀物の袋を投げ出すと、附近の一軒家であるロムバード家の水車小屋に逃げ込んだ。
 水車小屋にはロムバードのおかみさんが一人いた。
「何だね、騒々しい。」
「た、大へんだ、こ、殺されている。」
「なんだって、」
 ロムバードのおかみさんは驚いて、スターヂスの案内で現場に行った。  仰向けに倒れている若い水兵の顔は、血で赤黒く彩られていた。然し、附近には余り血は流れていなかった。
 急報によって、州検察官[シエリツフ]代理リウク・ウイルキンスと相役ケントの二人を始め、大勢の役人の出張になった。
 仰向けに倒れている水兵服を着た男は、頭部と心臓部に二発の弾丸を受け、顔は無惨に叩き潰されていた。前夜この地方には大雨があったが、水兵服の上部は露に濡れているだけで、背中の方は乾いていたので、雨が止んだ後、即ち八時以後の兇行と看做[*みな]された。頭部を突抜けた弾丸は、屍体の傍の白土の中に半ば埋没していたが、その角度から、弾丸は仰臥している所を上から射ったものである事が判明した。顔面の惨状は正視に堪えないほどで、狂人の仕業としか思えなかった。
 ポケットを探ると、身分証明のカードが出て来て、それによって、この男は軍艦ニウ・ヨーク号乗組員で、当年二十二才のレイフォード・グレーディ・ウイリヤムスである事が分った。
 付近には格闘の跡もなし、血もあまり流れていず、殆ど手懸りになるものはなかったが、ケントの慧眼は、その辺の地面に微かに自動車のタイヤの跡がついているのを見逃さなかった。自動車は一旦屍体と反対側で止り、そこで方向転換して、屍体の傍を通って走り去っていた。それが雨後であることは明かであった。然し、ロムバードのおかみさんは、自動車の音もピストルの音も、全然聞いてはいなかった。
「知らなくてよかったわ。知ってたら気絶したでしょうよ。」
 とロムバードのおかみさんは怖そうにいったが、直ぐに、
「みなさん、この屍体の様子が変だとお思いにならなくて。」
 といった。
 ロムバードのおかみさんの指摘したのは、屍体が大へん鄭重に扱ってあるというのだった。多分意識不明のまま自動車から下したのであろうが、手や足をちゃんと真直ぐにして、姿勢を正しくして、死後取り乱さないように、注意が行届いているのだった。然し、後に思い当る、このおかみさんの言葉はその時は余り重きを置かれなかった。

 当局者がワシントンの海軍省に打った電報の返辞は、折返しウィリヤムスの乗組艦ニゥ・ヨーク号の艦長ランドールからやって来た。それによると、彼は二年以前から水兵になったので、ジョーヂア州ラチエル町の者、父は町でよく知られているメソヂスト派の宣教師だった。十日ばかり以前に父の宣教師は態々ニゥ・ヨークにやって来て、碇舶中のニゥ・ヨーク号の副長に面会して、レイフォードの妹が危篤だからといって、休暇を乞うたのだった。
 若い水兵は所属の艦へ帰る途中で惨禍に会ったものらしく、当局の見込みでは、彼の所持金が殆どなかった点から、物奪りの所為として、附近一帯の浮浪人狩り、及び附近の町の古物商質商の点検をして、強盗が盗み去った品を発見しようと試みたが、それは全て失敗に終った。
 と、附近のオーガスタという町に、レイフォードの情婦がいるという事が、当局の耳に這入った。ケントは早速オーガスタに出かけたが、その女は既に百五十哩も離れているメーソン市に移っていたので、ケントはそこまで追って行き、市探偵局のホランドの助けを借りて、結果、彼女が病気で入院している事を突留めて、病床で聴取をしたのだった。  所が病床の女は眼に涙を一杯浮べながら、
「もう永い間会いませんわ。私、棄てられましたの。メインの方に、ちゃんと奥さんと赤ちゃんがある事を聞いていますわ。その人達は本当にお気の毒ですわ。」
 ケントは尚も質問を試みたが、結局、この女は何事も知らない事が確実になるばかりだった。

 若い水兵の故郷ラチエルの町は、オーグスタから二百哩ばかり離れていたが、ケントはホランドを伴って、この南の美しい町を訪問することにした。
 若いウィリヤムスの死は町中で評判になっていた。誰一人彼の死を悲しまないものはなかた。ケントとホランドとは先ずレイフォードの父メソヂスト派の宣教師を訪ねたが、恰度不在だったので、そのまま帰ろうとしたが、ふとガレーヂの前を通りかかった時に、ケントは吃驚したように立止って、むづとホランドの腕を掴んだ。
「君、このタイヤの跡を見給え。」
「え、何の事だね、それは。」
 「このタイヤの跡はロムバードの水車小屋の傍で発見されたものと寸分違わないのだ!」  ケントはひどく昂奮したが、そうしたタイヤはそれほど稀有のものではないので、ホランドは、
「だって、君、それだけでは――」
 然し、その時以後、ケントの頭には一つの疑惑がこびりついて離れないのだった。

 ケントは電信局を調べて、若いウィリヤムスが帰艦すべく家を出た日に、父ウィリヤムスから、艦長宛只今出発、期限までに十分帰着出来る旨の打電を発見した。之は一見何の疑念を挟む余地がないようであるが、考えて見ると、遅れた場合なら格別、十分間に会うのに態々[わざわざ]打電するのは可笑しいではないか。それは、遅れるかも知れない、或いは帰着しないかも知れない事を、予[あらかじ]め知っていたともいえるではないか。  次にケントの疑惑を深めたのは、父のウィリヤムスに会った時に、探偵だという事が分ると、急に真青[まっさお]になって、ブルブル顫[ふる]え出して、頭痛にかこつけて、その場を早く切り上げた事だった。
 二度目には大分落ついていて、宣教師は次のように語った。
「私は北カロリナのヂュナルスカ湖に宣教師の会合があるというので出掛けましたが、行って見ると、思っていた通り俗人の集会だったので、その足でニゥ・ヨークに行き、恰度[ちょうど]妹娘が悪かったので、倅[せがれ]のお暇を貰って来たのです。帰りには私は自動車でアトランタまで送ってやりました。倅はそこからバスに乗りました。それが永の別れで、可哀そうに何故あんな目に会ったのでしょう。」
 宣教師は両眼から涙をボロボロ溢して、今にもそこへ泣き崩れるように物語るのだった。二人の探偵はどうしてもこの慈愛に充ちた、温容にして謹厳な宣教師を疑うことは出来なかった。
 と、そこへ若い娘が顔を出した。
「之が妹です。」
 宣教師の紹介についで、ホランドが、
「大へんお悪かったそうですね。」
 というと、娘は軽く、
「いいえ、それほどではありませんでしたの。ホンの風邪でしたのよ。」

 ここで両探偵は俄然活躍を開始した。
 先ずケントは町の終夜ガソリン売場の夜番に訊いた。
「ウィリヤムスさんは、息子をアトランタまで送った晩に、何時頃帰って来たかね。」
「さぁ。一時頃でございますべえ。」

 状況証拠は多々揃った。然し、相手は名声ある宣教師である。息子を惨殺したという嫌疑の許に拘引する事は余程の決意を要する。
 然し、ケントとホランドは断然決心した。
 日曜の朝、ウィリヤムスはバイブルを抱えて、我が家を出るべく自動車に乗り込もうとした所を、殺人の嫌疑で拘引されたのだった。
 ウィリヤムスは眉一つ動かさず、平然としていた。
「紳士達[ゼントルメン]よ。私は赤ん坊と同様、無実でありますぞ。」
 二人の探偵は宣教師の落着いた態度に、二の足を踏んだ。然し、賽[*さい]は既に投げられたのだ。二人は猶予はしていられなかった。
「宣教師さまが拘引された!」
 恰[*まる]で悪魔に襲われたように、人々は耳から耳へと、溜息をつきながら伝えた。町中は鼎を湧かしたようになった。

 ウィリヤムスの主宰している教育の庶務僧スタンダードの陳述が致命的なものだった。
 彼の言葉に依ると、ウィリヤムスが息子をニゥ・ヨークに迎えに行く時に、「脱獄囚がうろついていて危険だから」といって、彼からピストルを借りて行ったが、息子が殺されてから、請求して返して貰ったが、驚いた事には、数発射っていあったというのだった。
 発射されたピストルの弾丸には、条痕がついて、それが箇々のピストルによって、確然として違うことは、なお人の指紋の如きものである。スタンダードがウィリヤムスに借したというピストルと、若い水兵を倒した弾丸とは直ぐ比較研究され、全く後者は前者から出たものと断定された。

 動機は相場の失敗だった。この、人々から尊敬されていた宣教師は、綿糸相場に私かに手を出して、千弗[*ドル]近い損をしていた。彼は息子の保険金でそれを埋めるつもりだったのである。
 相場に手を出して、損をして、その為に殺人を敢てしたインテリに山田憲があるが、彼を犠牲にしたのは、強欲な金融業者だった。宣教師の身でありながら相場に手を出し、自己の面目を保つ為に、立派な息子を惨殺したというに至っては、それが盛夏の犯罪であったにも係らず、尚肌寒き感のある話ではないか。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
初出誌「中央公論」では【★夏の夜の犯罪】というコーナーに収録されている。
ルビについては、底本にあったもの以外にも補助的にいくつか付けたが、その私が追加したルビには[ ]の前方に*を付けて区別出来るようにした。