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昂奮を覚える

甲賀三郎

 小栗君の「黒死館殺人事件」は久し振で昂奮を覚えさせられた作品である、先に久し振で江戸川君の登場があり、 「悪霊[あくれい]」では確かに十分昂奮させられたけれども、それが龍頭蛇尾に終りそうな今日では、 それは取消されなくてはならないから、「黒死館殺人事件」が久しく沈滞を嘆かれていた探偵小説界の惰眠を破る最初の長篇であり、 江戸川君の挫折を十分補えるものだと思う。
 いつもながら驚かされるのは、この作者の特異な物識[ものしき]である。かつて博文館で発行されていた 「太陽」に連載された南方熊楠[なんぽうゆうなん]先生の底知れない土俗学的な博識、例えば、新年号にその年に因んで、 辰の話を始めて貰うと、それが巳の年にあっても、 未だ終らない位の博識に驚威の眼を見張りながら、貪り読んだ記憶があるが、小栗君は深さに於ては南方先生に敵わないまでも、 広さに於ては匹敵しやしないかと思われるほど、色々と変った事を知っている。序篇に盛られている内容だけでも大したものだと思う。
 考証学という言葉は当嵌らないと思うけれども、他に適当な短い言葉を思いつかないから、やはりその言葉を借りるが、 小栗君の考証の広さは到底ヷン・ダインの及ぶ所ではない。只、稀にヷン・ダイン以後に出た為に、 恰もヷン・ダインの模倣のように 思われるかも知れないが、もしそうだったら、作者は大へん不幸だと思う。小栗君に親しく聞いては見ないが、 こうした作品を書こうという考えは、ヷン・ダインが日本で喧ましくいわれる以前からあったかも知れないと思うのだ。 と、こんな事を考えるのは、私にも同じような経験があるからで、即ち「手塚龍太」を世に出した時に、 私の考えは、名探偵というと、多少の例外はあるが、たいてい瀟洒たる紳士で、道徳家に極っているから、一つ型を変えて、 醜い容貌で非道徳家の探偵を拵えようと思ったのだったが、それが偶然にルブランの「バルネ探偵」と同巧悪曲になって終った。 むろん私は「バルネ探偵」の存在は知らないで「手塚龍太」を世に出したのだった。そんな経験があるので、 一層小栗君の事が気になるのだ。多くの読者は決してヷン・ダインの模倣などとは思いはしないだろう。 ヷン・ダインなどが到底考えつきそうもない作品なのだから。
 尤も、この作品も二三の欠点がないとはいえない。その一は、探偵小説で最も尊ばれる所の、 フェア・プレイについてであるが、 この作者はむろんフェア・プレイの重要性は十分認めていて、而も十分それを実行しているのだけれども、 作品に盛ってある所が一般読者の常識の範囲外の事が多く――さりとて、さして専門的なことではないのだが ――与えてあるデータがよく呑み込めない為に、推理を働かす暇がなく、ただもう作者の特異な物識[ものしり] さに舌を捲きながらついて行く――従って、別個の而も十分価値のある面白さはあるが、探偵小説的な面白さを稀薄にす る恐れが可成あると思う。
 第二の欠点は文章の難解さ――といっても、寧ろ之は内容から来る難解さなのだから、 もう少し分り易く説明されてもいいと思う。文章が何となく混雑するのは、地[た]の文章は兎も角、 会話がいけないのだと思う。会話は他の文章のオアシスであって、そこへ来るとホッとしなくてはならないので、 却[かえ]って難解さを深めているのは考えものだ。もう少し会話を工夫して、むしろ、簡短に平易にして、 地[た]の文章の方を多くして、グングン書いて行く方がいいのではないかと思う。
 第三の欠点は、いつもこの作者が好んで用いるのだが、背景[バック]が西洋臭いということだ。 むろん、エラリ・クイーンが探偵小説の一因子として、十分ノ一の価値を背景[バック]に置いている位で、 私はいつも小栗君の使う背景[バック]には感心し敬服しているのだが、一般読者には頭に這入り悪[にく]いかも知れないと思う。 例えば「完全犯罪」にしても、私は蒙古の奥地という背景[バック]が非常にいいと思っていたのだが、 やはり内地の出来事の方がいいという議論もあったし、中にはあれを翻案じゃないかといった人さえあったのだから 、私としては然し、西洋の中世期的なこの作品の背景[バック]は大へんいいと思っている。何はあれ、黒死館殺人事件 は素晴らしい作品だと思う。むろん、そんな事はないと思うが、「悪霊[あくれい]」のように中途で挫折することなく、 悠々と彼岸について貰いたいと思う。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
文章中、乱歩「悪霊」のルビが[あくれい]になっているが、実際の本当のルビは[あくりょう]であるので、乱歩ファンは安心 されたし。
地の文の「地」のルビが[た]なのは、何故なのか不明。誤植か、甲賀のクセか、水谷準のクセかの何れかだろう。
文中触れられている手塚龍太シリーズについては、甲賀三郎の作品リストを参照すること。読んでみるとわかるが甲賀独特のシリーズといって差し支えない。そもそも人マネで息の長いシリーズなんて、相当な性格でない限り、あり得ないはずである。
「黒死館」の欠点2を読むと、また甲賀が大衆を読者として如何に大事に扱っているかがわかると同時に、この戦前に欧米風長篇本格探偵小説が書けなかった理由の一端(背景)もわかるような気がする。