【「甲賀三郎の世界」トップに戻る】


甲賀三郎・年表

創元推理文庫の「日本探偵小説全集1」、日本図書センター「甲賀三郎全集10」をベースに+α(評論随筆情報)を加えています。
間違いなどにお気づきになられれば、ご指摘の方御願いします。そちらの方が作成者としても大変ありがたいですので。

明治26年
(1893)
〇歳 10月5日に滋賀県蒲生郡日野町にて、小学生教師の井崎為輔(父親)及び、しえ(母親)の次男として、甲賀三郎(春田能為)、当時の井崎能為生まれる。この井崎家は代々近江甲賀郡水口藩、加藤家の藩士で、祖父の井崎湊は明治維新に活躍。
なお、幼少育ったところは、甲賀郡水口町(現・甲賀市)と思われる。
明治33年
(1900)
7歳 日野町の小学校へ入学す。
明治36年(1903) 10歳 大阪市北区伊勢町へ転居し、大阪市第一盈進高等小学校へ転校。
明治37年
(1904)
11歳 大阪の盈進高等小学校時代に『文藝倶楽部』などを愛読。5,6年の時に投稿を思い立って、短篇二作を創作。
明治40年
(1907)
14歳 3月に上京し、叔母の婚家で実業家の春田直哉宅に寄寓。
京華中学校第二学年に入学。
この中学時代は黒岩涙香、ドイルの作品を愛読。その影響か、なかなかの論理家で英語教師をしばしば悩ませたという話。
中学時代、『萬朝報』などに投稿し、何度か採用される。
明治44年
(1911)
18歳 第一高等学校工科に入学。この頃は、菊池寛、久米正雄らの作品を愛読。
大正4年
(1915)
22歳 東京帝国大学工学部化学科に入学。応用化学を専攻。
この頃、囲碁を後の有段者で実力者となった岩本や橋本に付き習う
大正7年
(1918)
25歳 1月に寄寓先の春田直哉の養子になり、春田能為になる。そしてその長女・春田道子と結婚。
7月、東京帝大工学部を卒業し、工学士の称号を得る。そして和歌山市由良染料株式会社に技師として入社し、同市へ赴任。
12月11日、長女初子生まれる
大正8年
(1919)
26歳 8月、由良染料株式会社を退社。東京神田三崎町二丁目一番地に居住。
大正9年
(1920)
27歳 1月、農商務省臨時窒素研究所技手となり、窒素肥料研究に従事。職場の同僚には後の大下宇陀児がおり、後の江戸川乱歩とも面識があった。
4月13日、長男(和郎)生まれる。
更に10月には技師に任ぜられる。
大正11年
(1922)
29歳 12月13日、次男(俊郎)生まれる。
大正12年
(1923)
30歳 8月に博文館『新趣味』の懸賞に応募していた「真珠塔の秘密」が、選者長谷川天渓に認められ一等に入選し、同誌『新趣味』にて発表。文壇デビューを果たす。筆名の甲賀三郎は郷土伝説上の勇者・甲賀三郎兼家から採用。
窒素工業視察(テーマは欧米に於ける窒化法による窒素固定法の現勢など)のため、農商務省に欧州各国への出張を命ぜられる。
10月、博文館『新青年』に本名・春田能為名義で評論を発表し『新青年』デビュー。続けて震災直後の11月には、この『新青年』に甲賀三郎名義で第2作「カナリヤの秘密」を発表。この素早い経緯には職場の同僚に『新青年』編輯長・森下雨村の知り合いが職場にいたためらしい。
暮れ近くに豪華客船「筥崎丸」にて、海外出発。
大正13年
(1924)
31歳 この年、欧米各国の農商務省視察業務のため、日本を離れていたが、その間も後に博文館の単行本『欧米飛びある記』として纏められる読物を本名の春田能為名義で『新青年』に連載発表し、巧妙な筆致で人気を得る。
6月、「琥珀のパイプ」(新青年)発表。なお、この表題は森下雨村が命名した。
大正14年
(1925)
32歳 8月13日、次女淑子生まれる。
「母の秘密」(新青年)などを発表。
大正15年
(1926)
33歳 「ニッケルの文鎮」(新青年)などを発表。(これ以後は、理由有りの例外を除きの作品発表は年表から省略。創作リストなどを参照すること)
昭和2年
(1927)
34歳 探偵作家による初の記録文学「支倉事件」を読売新聞に連載。加えて雑誌にも博文館の『文藝倶楽部』に初めての連載創作長編「阿修羅地獄」を発表。
2月、渋谷区栄通一丁目四十三番地に転居。終の住処となる。
昭和3年
(1928)
35歳 1月に、窒素研究所技師を辞任。作家専業になる。
昭和5年
(1930)
37歳 この頃から、長谷川伸、平山蘆江、土師清二らと交誼を厚くする。
4月〜5月の間、1ヶ月の満鮮(満州と朝鮮)旅行。
昭和6年
(1931)
38歳 大下宇陀児と探偵小説観の論争。
昭和7年
(1932)
39歳 4月、自ら提案した新潮社「新作探偵小説全集」の書下し長編として「姿なき怪盗」を上梓。
8月、将棋初段となり、後年には2段になる。
「デパートの絞刑吏」の大阪圭吉を『新青年』10月号にてデビューさせる。
昭和8年
(1933)
40歳 5月、「完全犯罪」の小栗虫太郎を推薦し、『新青年』7月号にデビューさせる。
12月、文芸家協会理事に就任。
昭和9年
(1934)
41歳 2月、養父・直哉、兄・有為死去
昭和10年
(1935)
42歳 『ぷろふいる』誌上に連載した「探偵小説講話」をめぐって、探偵文壇に論争を巻き起こす。
12月、文芸家協会理事を解任。
昭和12年
(1937)
44歳 長谷川伸主催の脚本研究会「二十六日会」に加入し、探偵戯曲の確立を目指した。「闇とダイヤモンド」「恐怖の家」などは新国劇で上演される。
時代物長篇「怪奇連判状」を連載。
昭和13年
(1938)
45歳 8月より『甲賀・大下・木々傑作選集』を刊行。甲賀の分は全8巻終了。
11月、長谷川伸、土師清二、中村武羅夫、衣笠貞之助らと華南、台湾を視察。
『中央演劇』『舞台』誌に戯曲を発表。
昭和14年
(1939)
46歳 実父・為輔死去。
昭和15年
(1940)
47歳 3月21日、松本高校在学中の長男和郎、北アルプスで遭難死去。
戯曲「七十年の夢」「黒鬼将軍」を脱稿するも未発表。
昭和17年
(1942)
49歳 2月、「親子錠」が梅沢昇一一座により浅草公園劇場で上演される。
5月、長谷川伸に書いてくれと依頼していた、甲賀の養父(の父か?)・春田道之助ら三州吉田松平藩の二少年が活躍する将棋隊の悲劇を描いたノンフィクション小説「幕末美少年録」を含む『浜田弥兵衛』(長谷川伸著)が刊行される。
6月、日本文学報国会事務局総務部長に就任。
12月、長女・初子、医師の柴田英生と結婚。
昭和18年
(1943)
50歳 11月21日、大津市の芭蕉墓前祭に参列する。
12月、養母・たか死去
昭和19年
(1944)
51歳 3月、実母・しえ死去。
10月、文学報国会を辞任。日本少国民文化協会事務局長に就任。
昭和20年
(1945)
52歳 2月、日本少国民文化協会公務である「学童疎開の緊急会議」の出張のため九州に赴いたが、その帰都の折、超混雑の鈍行車中で急性肺炎に冒され、途中の岡山駅で下車。岡山市合同新聞社社長らの配慮で、13日、友沢病院に入院。14日死去。
東京で日本少国民文化協会葬の後、世田谷区玉川瀬田町慈眼寺に葬られる。
昭和22年
(1947)
没後2年 6月より翌年9月にかけて、『甲賀三郎全集』全10巻が湊書房より刊行された。
昭和24年
(1949)
没後4年 1月、遺稿「海のない港」が『宝石』に発表された。
昭和30年
(1955)
没後10年 この年4月に東方社から発刊された『死化粧する女』を初めにして、「幽霊犯人」「妖魔の哄笑」「荒野の秘密」「犯罪発明者」「蟇屋敷の殺人」「死頭蛾の恐怖」「姿なき怪盗」、更に翌31年の「盲目の目撃者」「二度死んだ男」「山荘の殺人事件」「N2号館の殺人」「池水荘綺譚」「公園の殺人」「探偵手塚龍太」、更に32年に「体温計殺人事件」「菰田村事件」「隠れた手」「女を捜せ」と3年間で19冊。甲賀三郎の生前生後合わせても最大数の叢書となる。
平成13年
(2001)
没後56年 日本図書センターから、湊書房版「甲賀三郎全集」の復刻版全十冊が出版される。