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小説家の探偵小説

甲賀三郎
  

 小説家の探偵小説と云うのは妙な標題だ。探偵小説と小説と云う名がついているからには小説に相違なく、然らば探偵小説を書く人は小説家に違いないのだから、何も小説家の探偵小説と断るに及ばぬ筈である。然し一般に探偵小説を書く人は探偵小説家と呼ばれて只の小説家と区別されているらしい。
 凡そ小説の揺籃時代には只の小説とか探偵小説とかの区別は無かったに違いない。その中[うち]に書くのがむつかしい為めか、それとも馬鹿にした為めか、好い小説家が探偵小説を書かなくなった。結局探偵小説と云うのは低級な扇情的なそして社会性のないもので、探偵小説家と云うものは詰らないものとなって終ったのである。
 然しいくら只の小説から馬鹿にせられても一部の人々の読みたいと云う心を抑える事は出来ない。好い小説家が書いて呉れないからと云って、好い小説家でない人に好い探偵小説も書けないから、不満足ではあるが、探偵小説の愛好者の中で筆の立つものが書き始めた。こうした所謂アマチウァ作家に仕事場を与えたのが、博文館の『新趣味』と『新青年』で、『新趣味』は其後廃刊したから、現在では『新青年』が独り、舞台を背負って立っている訳である。こうして今日のアマチウァ探偵作家の成功は一に同誌主幹森下雨村氏の功に帰する事になったのである。
 アマチウァ探偵作家が台頭して探偵小説が案外只の小説と駆け離れたものでない事が分ると、小説家の中に問題になって来た。現に最近の文藝時報で、佐々木味津三氏が探偵文藝を冷眼視出来ないと云ったような意味を述べている。同氏は議論だけでなく、既に自身探偵小説を創作して居られるし、其他小説家にして探偵小説に手を染めるものが輩出して来た。
 之等の小説家の探偵小説がアマチウァ作家にどんな影響を与えるかは分らないが、探偵小説その者から云うと、小説家が仲間入りして呉れたと云う事は如何にも心強い事なのである。
 探偵小説に対する一般の人々の概念は正に一転した。この気運に乗じて、小説家が加勢して呉れるなら、探偵小説はキッと燎原の火の勢[いきおい]で拡がるに違いない。そうして探偵小説をして、単なる扇情的、或[あるい]は浅薄なるトリックに終始するものに止めずして、軽快なる機智、迷路の彷徨の中に、何者か人世を暗示するような真の探偵小説への完成を一層早めるに相違ない。
 大方の探偵小説愛好者よ。試[こころみ]に『新青年』の二月号をひもどいて見給え。そこには小説家たる水守亀之助、佐々木三津三、片岡鉄兵、正木不如丘の諸氏の作品と、アマチウァ作家に這入るべき横溝正史、川田功両氏の作品と、合せて六つの創作が並んでいる。僅々数年前アマチウァ作家さえ出なかった時代を省みたら、なんと我々探偵小説マニアは好[い]い月日に出喰わしたではないか。
 水守氏の解決なき、探偵小説の一新型としての「奇蹟を望む」、佐々木氏の汽車中のローマンスと検事の透徹なる推理に取材せる「髭」片岡氏の死せる妹の欲望を果す「死人の欲望」正木氏の吹雪吹く中のミステリアスな情死を取扱った「吹雪心中」――之等の諸作は必ずしも完璧とは云えない。例えば水守氏の作は何となくゴツゴツしていて、幾多の解決がユラリユラリと覆えって行くのが少し煩わしい。佐々木氏の作は検事と署長との対話に一工夫欲しく、女のやり方が真実性に乏しく、検事が余りに冷然として機械の如き観がある。片岡氏の作は稍真実性に乏しく、幽霊を見るのは男の妄想とする方が好ましく、死面のトリックや終末の手紙は稍陳腐なる手法である。正木氏の作は亦探偵小説の一新型であるが、扇情的方面の稀薄なる憾みがある。――とは云え、いずれも小説家として声名のある人々であるから、探偵小説のコツを会得せられるならば、名品立所に至る事を疑わないのである。
 川田功氏の「偽刑事」は犀利なる心理描写に成功し、横溝氏の「裏切る時計」は氏独特の平易低、頗るアトラクチブの筆致を以て、新聞切抜のトリックの鮮かな手際で否応なしに読者を納得さしている(時計のトリックは我之を取らない)この切抜のトリックのような考えがアマチウァ作家の強みで、小説家の末が思い及ばない所ではないかと思う。  引合[ひきあい]に出した水守氏等及び其他探偵小説を試みんとする小説家諸君よ、探偵小説を書く事によりて我等如きアマチウァにその作品を云々せられる事潔からずなどと云わないで、幾十万探偵小説愛好家の為めに、どしどし探偵小説をお書き下さらん事を切望して、ここに筆を擱[お]く。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
特にない。