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探偵小説界の現状

甲賀三郎
  

 探偵小説界の現状は概して沈滞している。本格探偵小説に於て殊に然りである。ここに本格探偵小説と云うのは、犯罪の動機や犯人の性格描写などに重きを置かないで、主として不可解或は、巧妙な計画的犯罪と、その科学的解答とを興味の中心としたもので、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物語がその代表的のものである。本格探偵小説は無論小説の一部門であるし、多くの文学的要素を持ち、又持たなくてはならぬものであるが、前述の説明でも明かな通り、文学としては非常に特種なもので他の小説が多く心臓[ハート]に訴える文学であるに反して、之は頭脳[ブレイン]に訴える文学であって、考え物或は、謎々の文学とも云うべく、或る点に於ては詰将棋或は、幾何学の解答の持つ面白さと全く一致するものである。
 そこで、幾何学や詰将棋の課題が一見無限の如く見えて、実は小数の天才に依って少し宛考え出されるように、本格探偵小説のプロットも極めて極限されるもので、宗桂であったか誰だったか忘れたが、詰将棋百題を案出して、斯界の天才と唱われた人があるようにコナン・ドイルの天才を以ってしても、シャーロック・ホームズ物語は百篇には充たないのである。只、本格探偵小説は詰将棋の場合と異って、文化の進むに連れて犯罪の方法や又それを糺明する方法が新たに案出せられるから、時代に応じて新らしい工夫が編出される余地はあると云える。
 之を要するに、本格探偵小説は一時代に百篇内外(この数量には何等理論的根拠はない)の名作が現われて、世人の熱狂的歓迎を受けると共に、一時沈滞期に入り、数十年(この数位についても前同断)を経て、新時代に入って又新しい百篇が生れるのではなかろうか。
 以上の結論は之を我国のみならず欧米の探偵小説界に当て嵌め得ると思う。本格探偵小説は欧米に於ても既に沈滞期に這入っているので、(ここには主として短篇について論じているので、長篇については後に述べる)毎月雑誌に発表される探偵小説の数は、我国に輸入されている雑誌にだけでも数十篇に達するであろうが、その中で我々を感服させ或は、魅了するものは絶無と云って好い。我々は欧米の読者が飽きもしないで、殆ど同じようなプロットのものを読んでいる根気に敬服する他はない。
 本格探偵小説は全く特種の能力によって生まれる特権の読物たる事は、筆者の屡々論じた所で、その読者も亦特種の人たる事を要し、批評も又特種の尺度を以って、なさなければならない事を屡々高唱した。然し、一部の探偵作家中には、探偵小説を特種の文学とするに反対の意見を有して、その自然主義文学至上主義の見地から探偵小説を彼等の所謂芸術小説の領域に突入せしめんとした。その企は半ば成功し、半ば失敗に帰した。成功した半面は即ち探偵小説の文学的地位を高め得た点で、失敗の半面は即ち本格探偵作家の進出を阻止した点にある。この事は今日の沈滞期を早からしめた大きな原因の一つで、筆者の深く遺憾とする所である。
 然し、本格探偵作家は前述の如き人為的原因の有無に拘らず、本来少なかるべきものではあった。実際今日の読書階級の人々を満足せしむべき本格探偵小説を書く事は至難の事なのである。更に本格探偵作家に取って恵まれざる事は、今日の原稿料支払制度であって、稿料が単に労力の現われた結果のみによって、即ち枚数に応じて支払われる制度の存する限り、その一つ一つの短篇に、首尾一貫したプロットを描き、且つ必ずそこに何ものか独創的なトリックを考察せざるを得ない彼等は、そして生計を支える為に月々少くとも二三篇をものせざるを得ない彼等は、数年ならずして、その制作能力を涸らして終うのは又当然ではなかろうか。
 さて、本格派と袂を別って、所謂芸街小説の領域に進出を企てた非本格探偵小説派はどうなったかと云うに、非本格派と雖も、本格派に比べると、プロットに首尾一貫しなくても好い、云い替えれば何等科学的解決を与えなくても好いと云う安楽さはあっても、それに代うるに表現のむつかしさを持ち、且つ何等か独創的のものがなくてはならないと云う点では少しも変りもないので、矢張選ばれた特種の能力を持つ作家のみが残る事となり、その作家達もやがて本格派の行詰ったのと同じ理由で行詰って終ったのである。つまり今日の状態では本格派も既に強弩の末で、従来築き上げた勢力範囲に向って、時々思い出したように矢を放っているような有様なのである。
 然からば探偵小説はこのまま沈滞し切って終うか。
 この問に対しては、短篇については遺憾ながら然りと答えざるを得ない。無論既成作家は既成作家としてその生命は保ち得るであろう。然し、彼等の力ではこの沈滞を破る事は恐らく不可能で、それは恐らく一大天才の出現と、その劃時代的な作品に待たなくてはなるまい。
 が、ここに一つ探偵小説界を救うものがある。それは長篇である。
 本格探偵小説は元来長篇たるべきものである。之を欧米殊に英国の例に見るに、エドガー・ウオーレスの如き一週間に一冊の割合で単行本を出版する驚くべき流行多作家があるが、彼を除いても、尚フレッチャー、サッパー、オルチイ、オップンヘイム、ル・キュー、フレッド・ホワイトヘッドン・ヒル等々新旧の作家が発表する探偵長篇は月々三四十冊を下らない。之等の単行本は一旦三四円の定価のものとして発行せられた後に、五十銭の廉価版が発売される。大英帝国の領土には太陽の没する時なく、イングリッシュ・スピーキング・ネーションが全世界の何分の一を占めるとは云え、その盛況は只感嘆の他はない。
 翻って我国の現状を見るに長篇の機運は正に動きつつある。長篇作家としては江戸川乱歩、大下宇陀児、夢野久作の諸氏、又新進作家として浜尾四郎氏も十分長篇作家の素質があって、多からずと雖も又少しとしない。之等の作家のうち前二者は現に長篇連載を発表している。
 然し、長篇探偵小説はどうしても単行発売せらるべきもので、連載には適し悪い。と云うのは探偵小説は他の小説と違って、一種の謎々小説であり、その謎を解く鍵が多くの場合極く些細な、余程注意深い読者でないと読み落して終うような所にあるので、之を雑誌に連載して数ヶ月以前に発表された事を、読者に記憶を強いるのは至難であり同時に興味を索然たらしめる恐れがある。又、之を作家側よりしても、毎日〆切に追われながら、ポツポツと切って出すのでは、首尾一貫した名作は出来悪い。一気に一纏めに書下す方が遙かに読者を魅惑し得るものが書けるであろう。
 上述の事については、探偵作家の誰もが等しく考えている所で、現に昨春病歿した小酒井不木氏も健康恢復の上は一大長篇を書下す決心であったと伝え聞いている。一方、出版業者から云っても、欧米先進国がすべて小説の書き下し出版をやっており、そのうちでも探偵小説が断然圧倒的な事実を見たら、いつまでも小説と云えば新聞なり雑誌に発表されたものを編纂発行するに過ぎないのは姑息である事を悟り、勝れた探偵小説の書き下し出版を進んで引受けるべきだと考える。
 之を要するに、探偵小説は短篇に於て正に沈滞期であり、その沈滞は相当長く続くべきものであるに反し、長篇は正に今より出立すべき機運にあり、それは連載物としてよりも単行発行として、より多くの生命のあるものと結論する。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
*七段落目の「芸街小説」云々は、先ず誤植であろう。恐らく「芸術小説」で間違いない。
なお、この書下し長篇探偵小説の持論を、昭和七年に、この文章を発表した《文学時代》の版元である新潮社の企画で実現させている。