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探偵小説の将来

甲賀三郎

 探偵小説は今非常な勢いで流行し、もしくは流行せんとしているかのように見える。探偵小説界に関係のある者は、少しでも多く探偵小説の領分を増そうとして、侵略併合主義を奉じて、少しでも探偵臭のあるものは、悉[ことご]く探偵小説のカテゴリーに入れてしまった。その結果、探偵小説の版図は頗る厖大なものになったので、その将来を卜するのにも一律には行かない。そこで、先ず便宜上分類を行うこととし、犯罪捜索を主として、相当有力な探偵の出て来るのを、本格探偵小説とし、全然探偵が出てこないか、出てきても大した働きをしないのを、亜探偵小説とする。
 本格探偵小説は分って三とし、探偵の活躍を主とし、推理によって犯罪捜索をするものを推理式、探偵よりもむしろ悪漢の活動を主とし、文化生活における冒険を描くものを、冒険式、実際犯罪又はそれに近き実話的のものを実話式とする。
 亜探偵小説は分って二とし、幻想、空想、変態的心理等を主題とするものを変態式、英国の物語作者が好んで用いる所の秘密小説、即ち、そこには必ず犯罪があるが、犯罪の捜索を主とせず、主人公はその愛人の危難又は不遇を救うために、愛人に纏(*)るミステリーを解いて行くという式のものを、物語式とする。
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 さて、一般的にいうと、本格探偵小説は衰運に向かいつつある。殊に、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズを宗とする推理式は滅亡に瀕しつつあるといってよい。これは主として制作難より来るのであって、推理式に新味を附する事は、新興科学の力によって、推理系に新しさを生じた時のみであって、それとても極めてむずかしい事である。
 モーリス・ルブランのルパンを流祖とする冒険式は、矢張冒険に新味を与える事が至難なのと、我国の文化生活が、未だ冒険にピタリとしないために振わない。推理式よりも幾分見込はあるかも知れないが、最早峠は過ぎたであろう。
 実話式は単に生命からいえば永遠性があるかも知れない。然し、それは単に生命があるだけであって、いつの世にも行われる代りに、いつの世でも大して振いはしないだろう。
 本格探偵小説が衰微に向いつつあるに反して、亜探偵小説は勢い衰(*)えず、或物はますます隆盛ならんとしている。
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 亜探偵小説中変態式はエドガー・アラン・ポーを開祖とするもので大衆性がないといわれているが、然し、ここに大衆というのが、もし六千萬国民をいうのならば知らず、雑誌類を購読する人達の多数をいうのならば、変態式は大衆性がないとはいえない。蓋し、現在の読書階級は変態式の対して、必ずしも過半数的に反対を示してはいない。然し、変態式はユニークな作家を必要とするし、将来において圧倒的勢力を占めるとは考えられない。
 最後に将来最も有望なるべきは、ガボリオーを開祖とする亜探偵小説中の物語式である。
 物語式は恋愛、秘密、冒険を取り入れたもので、愛人を苦しめ且つ愛人を束縛する秘密を解かんとする点において、本格探偵小説推理式の興味あり、愛人に纏る法律的犯罪、或いは愛人を救うために、法律的犯罪を敢てせんとする所に冒険式の面白味あり、愛人の態度の曖昧豹変に、懊悩煩悶する所に通俗小説恋愛式の興趣あり、作者の手腕よろしきを得ば、必ずや将来の読み物界を風靡し、探偵小説の名はこれによって独占せられるであろう。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
(*)が二つあるが、これは判読に少し自信がないということでご容赦頂きたい。