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探偵小説休業その他

甲賀三郎
  

  探偵小説休業
 海の向うには毎日何百人時によっては何千人という殺戮が行われている。忠勇無比の軍人が祖国の為に血と肉を捧げて戦っている。この時に際して、たった一人の人間が殺された為に、帝都の全警察が血眼になって騒ぎ廻るというような事は、仮令小説にしても迫真性もなければスリルもないと思う。どうも探偵小説は平和な時の刺戟剤的の読物だと思う。
 他所の国では戦時ともなれば治安が乱れ勝ちだというのに、我国では反って犯罪が減るという、何とも有り難い事である。先般の数夜に互る燈火管制は全く照明具を持たなければ歩けない暗さだったのに、帝都の治安は実によく保たれた。元より非常時に際し国民自制の結果であるが、この時に当って、帝都に怪盗が横行するとか、白昼令嬢が誘拐されるとか、半獣半人の怪物が殺人を擅ままにするとかいう小説は、気恥ずかしいばかりではなく、書くのを遠慮すべきではないかとさえ思う。悪意のある国が、その小説の一部を飜訳して、日本の首都の治安はかくの如く乱れているというデマの材料にしないとも限らないし、ひょっとしたら、読者のうちにも、そんな錯覚を起すまいでもない。探偵小説に犯罪はつき物であり、犯罪は治安の隙に乗じて起るものである以上、治安がよく保たれていては、探偵小説は書けないわけだ(。)所が今いう通り、非常時に際し、治安が乱れているかの如き事件を取り扱うのは遠慮すべきだとすると、この所暫く探偵小説は休業せざるを得ない。畢竟探偵小説は平和時代に、読者にスリルを提供するものだと思う。

  材料拡底
 満州にいる友人のOが東京へ出て来ると、私は大たんな恐慌である。私は昼のうちに自分の仕事をすませ、夜は殆ど徹夜で飲み歩いている。興が起れば夜中の一時だろうが、暁方の三時だろうが、お構いなく電話を掛けて、すぐ来いという。生憎私はその時間には起きて仕事をしているのだ。
 Oのお陰で、久しく遠退いていたカフェに度々足を通わせるようになった。満州の住人に銀座のカフェを二三軒紹介されたのだから変なものである。この間に新青年から二〇枚の注文を受けた。之は最初から辞退したかったので、その事もいったが、結局書くべく余儀なくされ、恰好の材料が得られないので苦しみ抜いた。一週間位は何にも手がつかなかった。その後に、満州の住人によって思い出されたカフェへ、何度か呑みに行った。締切の前日位に、或るカフェで城昌幸君に会った。城君も又同じ憂えで悶々の情を遣っているのだった。計らずも同憂の士に会って、盃は更に挙げられた事は申すまでもない。
 こうして、結局出来たものは碌なものでなく、稿料を貰うまでに、稿料に倍する飲代を支払ったのだった。

  サインを貰う
 横溝正史君が久々で上京したという報知を受けた。その前に、武夫君が結婚された通知があったから――今だからいうが、私は実際縁故も何もない人から、結婚の調査だが武夫君の素行について伺いたい、と訪ねられた事がある。私は幸か不幸か武夫君については多くを知らなかったので、丁重に断ったが、その事が今度の予備行動であったかどうか分らない。この機会に新婚夫婦の前途を祝福したいと思う――多分その為の上京だと思うが、生憎通知を受けた十一月二十七日は旅行中で甚だ残念ながら出席出来なかった。尚翌二十八日は、先般新聞紙上で伝えられた、愛鷹連峰縦走中不幸三枚歯の岩壁から墜落した少年が、奇蹟的にも殆ど何ら痕跡を残さず全快して、丁度二十八日が誕生日に当り、その家から招待を受けていたのにも出席出来なかった。毎月二十六日、長谷川伸その他の人と脚本研究会をやっているが、当日に限り前々からの計画で、鬼怒川温泉で開く事になっていて、その後二三日塩原方面へ廻ることになっていた為で、欠席の罪を横溝君に詫びて置く。尚、愛鷹山遭難事件は機会を得て委しく書くつもりだが、度々見舞状を下すったり、又御心配して下すった方に厚く御礼申したいと思う。
 今いった旅行で、塩原福渡の和泉屋に泊まっていると、隣のますやにPCLの撮影隊がロケに来た。聞いて見ると、江戸川蘭子がいるという。江戸川蘭子は江戸川乱歩の愛読者らしい。乱歩の愛読者なら、やはり探偵小説の愛読者だろう(或いは乱歩オンリーかも知れぬが)そこで、彼女の素顔は無論、スクリーンの姿も知らないのだが、何となく他人でないような気がして、私がいい出し、ついでにサインを貰いに行こうじゃないかといい出した。忽ち賛成者があって、日がドップリ暮れて、湊邦三と藤島一虎とが多分見破られないだろうというので、饅頭を一折持って、ますやの玄関に這入り、恐る恐る、和泉屋の客だが、是非江戸川蘭子さんのサインが頂戴したいといった。長谷川伸、土師清二に、私の三人は外に待っていた。蘭子さんはもうお寝みになった、剣つくを食わされたが、怯めずとうとう持参の色紙にサインを貰った。江戸川蘭子の他に椿澄枝のサインもあった。
 湊君は歎声を上げて、貰ったぞ、といって飛んで来たが、計らずも一悶着が起った。というのは江戸川蘭子も椿澄枝もどうも同じ手で、而も男の代筆らしいという説が起ったのだった。反対説もあったが、結局衆議一決、代筆という事になった。
 私は我々の方の悪戯もよくないかも知れないが、兎に角礼を厚くして求めたのに代筆とすれば不都合だと思う。それほど開き直るほどの問題ではないが、果して、この勝負はどっちが勝ちか、呵々。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
(。)は補助的に付けた句読点。