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実は偶然に(私は何故探偵小説家になったか)

甲賀三郎

 私は何故探偵小説家になったかと云う事については、之まで度々質問を受けて、その都度答えた事であり、今更事新しく云うのは少し気恥ずかしいほどだが、極簡短にお答えすると、実は、偶然になったのである。
 大正七年夏、東大応用化学科を卒業した当時の私は、正に一箇のアムビシヤスな青年技師であった。当時は欧州大戦の最中で、どんなものでも拵えれば売れると云う、我国化学工業界の最隆盛時だった。その為に、今から思うと夢のような話だが、ビリで卒業した私にも就職口が八つあった。その中には東京瓦斯だとか、三菱の生野鉱山だとか、大会社の口もあったが、アムビシアスな私は、そう云う創立の古い会社で、先輩がうじゃうじゃいる所では、容易にうだつが上らないと思って、創立早々の、海のものとも山のものとも分らない、新会社の由良染料株式会社と云うのを選んで飛込んで行った。
 由良染料株式会社と云うのは、今でも和歌山市外にある筈だが、当時は由良浅次郎と云う人の個人経営から株式組織になったばかりで、ドイツからの染料輸入杜絶に乗じて、盛んに製品を出し、相当の成績を上げていたのだった。私はこの会社で一年間技師をしていたが、そうして、決して恥かしくない働きをしたと思っているが、超えて大正八年には、いつまで続くか分らないと思われていた欧州大戦が急に終ったので日本の化学工業は一大打撃を受け、染料会社の如きは真先に没落すべき運命となったそこで私は前途に見切をつけ、世話して貰った教授に諒解を得て、同年夏東京に引揚げた。
 大正八年の夏から翌九年一月まで、約半年私は何のなす所もなくブラブラ遊んでいたが、先に由良染料に世話をして呉れた老教授は、私にいくらか見所があったと見えて、農商務省の或る研究所の技師に再び世話をして呉れた。この事は私より好い成績で卒業して、地方に取り残されている友人達を多少羨しがらせた。そうして、確かに私が東京に帰ったと云う事が、探偵小説家となる第一機縁であったのである。何故なら、もし私がずっと地方に止っていたら、探偵小説を書くような気も起らなかったかも知れないし、後に云うように研究所の技師仲間のうちから森下雨村君の親友を見出すような機会は全然なかった訳である。
 研究所技師としての三年間は極平凡に過ぎた。この間に私はどんなものを読んだか、よく覚えていないが、雑誌では新趣味新青年などを愛読した。一体私の文学趣味は相当起源が古くて、既に小学校時代から文芸倶楽部などを読んでいた。高等科の一二年、今の制度で云うと、五六年頃、日露戦争があって、戦争文学が旺盛になり、現に文芸倶楽部でも戦争文学的小説を懸賞で募集していたので、私はそれに応募しようと思って、短篇小説を二つ書いたのを覚えている。そのうちの一つは今でも筋を覚えているが、大阪から郷里近江に帰るのに関西経由で木津川に沿うていくつかのトンネルを潜り抜けた時にヒントを得たもので筋は汽車に新婚らしい夫婦が乗っていたが汽車が木津川の清流に沿うて、いくつ目かのトンネルを潜り抜ける時に、前から何となく浮かない顔をしていた女の方が、キャッと悲鳴を挙げた。トンネルを抜けて、汽車が乗換駅についた時に、右の夫婦も私も続いて降車したが、女はプラットホームで袂に顔を当てて泣いていた。夫は優しく女の背を撫でて慰めていたが、二人の会話をふと洩れ聞くと、女はトンネルの中で窓に戦死をした前の夫が現われたと云って顫[ふる]えて居り、男はそれを神経の所為だと云って打消していた。
 と云ったようなもので、幼稚なものではあるが、せいぜい十二三の時分の考えだとすると、私は相当早熟だったと思われる。この小説は半紙に筆で克明に書いて、規定に従って振仮名をつけたものだったが、結局投稿はしなかったと覚えている。
 中学時代からは探偵文学が好きになり、涙香ものはもとより、ロクに読めもしない原書で、コナンドイル物を愛読したものだった。そう云う読書の影響か高等学校の二部工科に這いった当時、一年生には作文が課せられたが、他の仲間がひどく作文を嫌ったのに反して、私の得点はいつも好かった。
 けれども不思議な事には、少年時代と云うよりは小学生時代を除く他、一度だって小説家になろうと思った事はなかったのである。
 大正十二年の晩春頃、私はふと新趣味の探偵小説に応募して見ようと思った。之は全く趣味から出発したもので、普通の小説はとても書けそうにないが――思い出したが、私は一高時代から小説を乱読と云って好いほど読んでいた。当時は久米菊池両氏の作は、一高時代顔を見知っていると云う親しみもあったが、殆ど洩らさず読んだのだった。
 ――筋で行く探偵小説なら書けそうだと思って、一夜漬けで二十枚、真珠塔の秘密と云うのを書いて投稿した。所が、之が選者長谷川天渓氏の眼に止って、確か八月号の誌上に一等当選で発表された。もし私の最初に書いたこの一篇が没書になったら、恐らく再び筆を執る気にならなかったのではないかと思う。
 真珠塔の秘密が当選してから間もなく、森下雨村氏の親友で、研究所の同僚だった岡崎直喜君から、雨村氏が探偵小説の創作を求めていると云う事を聞いて、それならばと、カナリヤの秘密と云うのを書いて、雨村氏に紹介して貰った。森下氏は幸いにそれを採用して呉れたりして、一方には江戸川乱歩君の活躍あり俄然探偵小説が世に迎えられるようになって、次第に諸雑誌からの注文が増えて来た。そこで、私はいつの間にかズルズルと筆の方が本職となり、遂に職業欄に著述業と書くようになったような次第である。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
特に注記すべきところはない。年表と照らし合わせて見れば、わかりやすいかもしれない