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女性の謎

甲賀三郎

 寡作である代りに余り駄作を発表しない江戸川君としては、今回の陰獣は彼の従来の作と比較して取り立てて光っていないかもしれない。然し完結に際して初めから読み直して見ると、彼の作品全体として、傑作の方に属しはしないかと思う。
 之は私自身の勝手な定め方であるが、私は一度読んでトリックを知り抜いている小説が、二度三度と読み直して見て、トリックを知っていると云う事が少しも障害にならないようなものを上乗だとしている。この意味に於て、江戸川君のものは、マイクロフォンで瀬下君も云っている通り、トリック以外の面白さであり、探偵がらない所に耐らなく人を惹きつける憎いような魅力を持っているので、何度読み直しても新たな興味が湧き出るが、殊に今回の陰獣は個々の場面に於て、ぞっとして息を凝らさねばならぬそうな所があり余っている。汽船発着所に屍体の流れついた辺り、実に巧妙だ。
 欠点と云えばお終いが少しゴタゴタし過ぎている。最後の章十二の大部分は不用だと思う。静子と云う女が一人三役をやっていた。それで沢山だ。大方の読者にはその事が確実であって好い。もっと疑いたいものは勝手に疑わして置けば好いので、作者までが加勢して、大江春泥が実在の人間かも知れないなどと、殊更に読者の頭を混乱させる必要はない。
 尤も冒頭に、作中の「私」が「事件そのものが、白昼の夢の様に、正体の掴めぬ、変に不気味な」事柄だったと述べているから、結末もその通りになったのかも知れないが、女主人公の一人[にん]三役で止めて置いた所で、やっぱり白昼の夢のような正体の掴めない所には変わりがないだろう。
 ここで鳥渡つけ加えて置くが、この「私」と云う男が道徳性の敏感を売りものにしているが、どうも附焼刃のように思える。作者は道徳性の敏感と云う事を、殊更に誤解しているのではないか。
 作全体が大きな謎であり、女主人公の行動が全然謎で、一読した時には物足りなく感じたが、再読三読すると、之は「謎の女」と云うよりも「女の謎」と云う方が相応わしく、彼女の行動はモナ・リザの唇と共に、永遠の女性の謎のような気がする。
 一読した時には本名平田一郎筆名大江春泥と云う男に、よく似ている実在の人間を知っている為に、つい大江春泥の実在性を疑わなかったが、横溝君が未だ嘗て考えられざるトリックと絶叫したのは、そこらの関係ではなかったか。一般読者中には彼の実在を疑っていた人が少なからずあったろうと思われる。
 然し、前にも云う通り、この作品はトリックには関係なしに存在を主張する事の出来るものである。
 慾には江戸川君が少くとも一ヶ月一篇位、この程度のものを発表して、読書界を賑わして貰いたいものだ。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
江戸川乱歩「陰獣」終了に際しての感想文である。なかなか手厳しく書いておられるが、ある程度は「新青年」での甲賀三郎自身の連続短篇中の話題をかっさらわれた腹いせ、 嫉妬感もあったかもしれない。また初期短篇と中篇「陰獣」といういわば別タイプの作品を一緒くたに 論じ、初期傑作短篇には劣る、という論理は厳しいとは思うが、ある意味では、江戸川乱歩の作品全体の質の高さを認めるものである。 もう一つ、突っ込んでみると、甲賀はどうやらトリックに騙されたようだが、これこそ乱歩の狙っていたものであり、恐らくは乱歩自身の本名を知っている探偵作家仲間や或いは マニア層への挑戦こそ真であったのではないか。真意のわからぬ一般読者を楽しめると同時に、探偵小説の高い次元でも勝負する、ここに自己抹殺トリックの面白さが あると思われる。そう考えると、甲賀の言い訳は、やっぱり言い訳に過ぎないわけで、「陰獣」の素晴らしさを認めてしまっているものと解すことが出来ようではないか。
もう一点、備考らしいことを書いておこう。マイクロフォン(但し四章までの連載第一回の感想)の瀬下耽の文章についてである。まだまだ彼氏の著作権が生きているので、そのまま写すわけにはいかないから、 要点だけ、ピックアップしてみると、瀬下は、《大谷崎のにおいがぷん鼻に》くる、と言いつつ、乱歩の素晴らしさを、所謂《探偵的事実》ではなく、 《あのねばっこい感覚的な行文の妙味》そしてその中の《付随的なもろもろの面白》さが《人目を幻惑》すると言っている。つまり狭義でいう本格的要素の探偵小説よりも、 怪奇幻想味の強い探偵小説の方を好んでいるようだ。実際《探偵趣味が濃厚でなければない程、その作品が好きになれる》とのこと。これはある意味、本格探偵小説を書きたいと思っていた 江戸川乱歩にとってみれば、皮肉的絶讃と取れないこともないが、怪奇味の強い瀬下耽ならでは、夢野久作にも近い好みだから仕方がないものもあろう。 また瀬下は乱歩と甲賀三郎を全く正反対の存在だとも言っており、瀬下から見れば、「陰獣」においても、そのねちっこい幻想味がお気に入りであったに違いない。