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印象に残る作家作品

春田能為
  

 好きな探偵小説の作家[さくか]はと聞かれると私は鳥渡[ちょっと]答に窮する。之は私が作家[さくか]を云々する程読んでいない事に原因する事勿論であるが、大体私が作家より作品本位で読んでいる為めで、同じ作家[さくか]のものでも作品によって、感心したり、しなかったりする。カロライン、ウエルスがコリンスの月長石[ムーンストーン]をひどく賞[ほ]めて、さて近頃評判の白衣の婦人[ウーマンインホワイト]――之によると、白衣の婦人[ウーマンインホワイト]の方が月長石[ムーンストーン]より後で発表せられたものと見える――は頗る退屈なものであると評している。私も之[こ]の説に賛成で、月長石[ムーンストーン]は私の最も好[すき]な作品の一つであるが、白衣の婦人[ウーマンインホワイト]の方は、その発端の主人公が深夜ロンドン郊外を迷って、路に白衣の婦人[ウーマンインホワイト]に遭う所や、白衣の婦人[ウーマンインホワイト]の伯父である奇怪な老人や、其他随所に息を凝らす様な興味深き事件とその描写があるが、さて全体として見る時は甚だもの足らぬものがある。斯くの如く、探偵小説が多くの人によって作家[さくか]よりも作品本位で読まれると云う事は、詰り探偵小説が未だ未だ筋本位で読まれる為めで作家の嫌悪であるとか同情であるとか云う主観が作品中に入って来る機会が少く、作家[さくか]の犯罪そのものに対する見解と云うよりも、いかにして巧みなる犯罪が行われ、いかにしてそれが発覚したかと云う所に読者の興味がある為めであろう。無論、ある作家[さくか]は常に社会組織の欠陥から来る犯罪を描き、ある作家は心理的錯誤による犯罪を多く取り扱うと云う風に、又は、或る作家[さくか]は勧善懲悪主義を以って作品に対し、或る作家[さくか]は罪人に同情を以って対すると云う風に、それぞれ作品の上に著しい傾向が現われている事がある。殊に近来探偵小説の範囲が広げられて来たので、将来益々作家[さくか]は夫々[それぞれ]特色を現わして来る事と信ぜられる。然し探偵小説の興味が多くその筋にある事は否み難い事で、従って好不好[すきぶすき]と云う事になると作家[さくか]よりも作品本位になり勝ちである。私としては本篇は与えられたる題よりも、寧ろ私の好きな作品とその作家[さくか]と云う逆な話し方になりはしないかと恐れる。
 さて、話の順序として、私は好きな作家[さくか]と作品と云う定義を――少し大袈裟だが――次の如く定めたい。好きな作家[さくか]と云うのは、名前を見ただけで読んで見たいと思うそう云う作家[さくか]。好きな作品と云うのは、何度でも繰り返えして読む気の出るそう云う作品、とこう云う事にする。
 好きな作家[さくか]のうちには無論ポーやコーナン・ドイルがある。然しそう云う人達はもうクラシックスの内に這入っているような気がする。この人達に次[つい]で読まずにいられないものは何と云ってもモーリス・ルブランである。分けてもアルセーヌ・ルパン物語の数々は何度読んでも面白い。
 アルセーヌ・ルパン物語を読だ人は作者ルブランの頭脳の勝れている事を否定する事は出来ない。変幻極りなき構想の妙、本筋と横筋を縦横無尽に織り込んで、読者を五里霧中に彷徨せしめる手腕には只々敬服の外はない。実際虎の牙の如きは余りに放胆なる筋に、途中で果して作者は之を纏め得るか知らんと心配する程である。水晶の栓、三十棺桶島亦推服に価する。欠点とする所はカイゼルが出て来たり、警視総監とルパンが同一人であったり、少し出鱈目過ぎる事と、探偵小説と云うよりは侠勇小説に傾いている事であるが、全篇に漲るユーモアとウイットと明るさについては何人の追従をも許さないものがある。ルパン物語に就いては、小酒井氏が嘗て発表せられた委しいものがあるから、之だけに止めて置く。
 次に之は余り評判せられないようであるが、私はガストンルルーを認める。尤も私の読んだのは黄色の部屋の秘密と黒衣婦人の香の二篇であるが、之等は実に勝れた作品であると思う。事件的の興味も中々棄て難いものがあるが、篇中探偵の役を演ずるルレタビーユは、無論常人よりは勝れた頭脳を持っているけれどもシャーロック・ホームズのそれのように冷い機械を思わせるような理智的でなく、ルパンのそれのように直覚的超人的でなく、誠に人間的であって、彼自身が事件に宿命ずけられている奇縁がある為めでもあろうが、黒衣婦人の身許を探り、彼女の先きの夫たる悪漢と、今の夫たる善良なる紳士とが余りに酷似しているのを見分ける為めの苦心は、涙ぐましいものがある。黒衣婦人も亦私の理想に近い女性で、雄々しさの一面の弱々しさがよく描かれている。要するに探偵的興味の外に、充分なる性格の描写があり、人生に対する深き考察が現われているので、私は長篇小説中第一位に推す事を辞せないものである。ガストン・ルルーはフランスの人、今尚作品を発表しつつあると云う事だけで、それ以外の事は知らない。
 短篇作家[さくか]としては、私は指を先ず第一に、G、K、チェスタトンに屈する。チェスタトンは人も知る如く、探偵小説の専門家と云うのではなく、元来は皮肉なる批評家で、確か薄田泣菫[すすきだりうきん]氏がもてはやされた茶話風のものは彼が開祖だったと思う。彼が師父ブラウンの数々の物語を書いたのも、探偵小説も立派に書けると云う彼一流の皮肉からであると云う事を聞いた。それだけに、師父ブラウン物語は実に気の利いたもので、ユーモアと皮肉とが混然として織り込まれ、とぼけた而も油断のならぬ坊さんが、談笑の間に破邪顕正を行う所、思わず襟を正さしめるものがある。有名なるこの作品については私如きがより以上贅する所はない。
 チェスタトンに次で私はビーストンを挙げる。ビーストンの作品は皆が皆そうと云うのではないが、多く最後に読者の意表に出て、あっと云わす風がある。一体読者をあっと云わすと云う事が、単にその意表に出さえすれば好[い]いと云うなら、作家[さくか]に取っては甚だ容易な事で、かのカードの手品に於けるが如く、一枚のカードを対角線で二分して、各に異った絵或は数字を配し、始めは一の半面を示し、次に他の半面を示して、一瞬のうちに変ったように見せるようなもので、作家[さくか]は事実の半[なかば]を読者から隠し、最後にそれを示せば好[い]い。然し、こんな事では読者は只あっと云うだけで、次の瞬間にはなんだと云う事になり、再び省みられない。そこで探偵小説に於て、読者をあっと云わすには少くとも次の二つの条件が必要である。第一は事実を勉めて読者に隠す所なく示し、読者をして適度の努力によって或る解決を作らしめる。この読者の想定した解決と実際の解決の著しく異なる事、第二は実際の解決が与えられた時に、読者がその解決に無理を感じないのみならず、進んで彼自身がもう少しの事でその解決を得たであろうと思わしめる事。第二の条件は必要欠くべからざるもので、読者に無理と感ぜさせたり、そんなむつかしい事は迚[とて]も考えられなかったと思わせるのは失敗である。ウオレスの「渦巻く濃霧」などは正に此[この]二条件を完全に備えている。ビーストンのものは短い為でもあろうが、現われた事実だけでは、読者が正しい解決を作る事がむつかしいであろうと思われる場合があり、又全体として余りに意表に出る事を主として、作品に霑[うるお]いがない恨みがある。こう云うとなんだかビーストンを悪く云っているように聞える。実際私は最近まで彼がそう好きでなかった。所が一二ヶ月前ふと、私が海外に出て留守だった為め読む機会を得なかった。昨年八月の増刊――本誌から云うと恰度[ちょうど]一年前に当る――にある人間豹と云うのを読んで、ひどく感心したのであった。之は法律を悪用して、法に触れる所なく、悪事をなすものを懲らす秘密結社「人間豹」の一人が警部に化けて、巧みに犯罪をした悪漢を取り押えるのであるが、人間豹の一人が目指す犯人の前で些細な事実から推論して着々犯行を指摘して犯人を恐怖に導き遂に自白せしめる。所がその推定したと見せた事は豈[あに]計らんや、予[か]ねて人間豹に於いて探偵してあった事であったと云うのが、ビーストン一流の意外さであるが、本篇はそれは寧ろ従であって、悪漢が予[か]ねてつけ覗[ね]らわれている人間豹を恐れている有様や、警部に化けた人間豹の一人から、着々犯行を指摘せられて次第に恐怖の情を高めて行く所や、分けても悪漢の飼育している鸚鵡の奇怪なる叫声[さけびごえ]は、一つの物凄い雰囲気を形づくって、凄気[せいき]人に迫る思いがある。一羽の鸚鵡を出して全篇的に陰惨な空気を織り出したのは到底凡庸作家[さくか]の及ばぬ所で、深く感服した。それ以来ビーストンのものは一層の注意を以って読んでいるが、、さきに挙げた如く些細な欠点はあるが、筋の組み立て方の巧妙さ、描写の勝れたる手腕、共に一流作家たるに恥じないものであると思う。
 ビーストンとは全く違った作家であるが、私の好きな作家としてモーリス・ルヴェルを逸する事が出来ない。彼は最も短き短篇作家で、常に深刻なる犯罪を描き、多く心理的に犯罪の内面描写をする。彼の作品は切尖[きっさき]鋭く蒼白く光る短刀を見つめているようで、時に無気味であり、不愉快とも云うべき程の事がある。が彼の筆には人を惹きつける熱がある。読まずにいられない作家の一人である。
 次に私は問題外かも知れぬが、日本の作家について一二言したいと思う。
 日本の作家では――今の状態では数も限られているが――私は岡本綺堂氏と江戸川乱歩君が好きだ。綺堂氏のは無論半七捕物帳に現われた数々の探偵物語であるが、作者自身も又恐らくどの読者も認める如く、あの物語は探偵小説としてよりも、江戸末期の情調を描き出す事によって成功し、且つ興味もそこにあるのであるが、探偵的に見ても中々勝れた作品だと思う。探偵の方法が多く直観的で、推理が幼稚なのは、近代探偵小説の科学的なのに馴れている読者に倦[あ]き足らぬ所であるが、時代が江戸である以上は近代科学も適用出来ないであろうし、又現時に於ても実際には未だ未だ見込み捜索が行われる事が少からず、有名な九州大学の白金盗難事件には刑事が易者に見て貰ったと云う話がある程であるから、半七老人の探偵法も亦棄てたものではない。
 江戸川君の作品に就いては他日機会がある事と思うから、今は述べないが、君[きみ]の近来の傾向を見ると、従来の探偵小説の殻から出て、只管[ひたすら]に純文芸に近こうと勇猛努力しているように思える。これは私も賛同する所ではあるが、一方では本格探偵小説に芸術味を与えると云う、つまり眼まぐるしいような探偵的メカニズムの上に一陣の芸術味の清風を送ると云うような方にも努力して欲しいと思う。
 恰度[ちょうど]転居の前後に当っていた為めに、暇の少なかったのと、所持の書籍雑誌を一纏めに仕舞い込んだ時であった為め、只記憶に従って雑然と書き並べたので、記憶の誤り及[および]内容の貧弱については深く編輯者並[ならび]に読者にお詫びする。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
特に書き記すこともないが、後半最後にチラリと甲賀の「探偵小説は芸術に近づくことは出来るが、決して芸術そのものにはなり得ない」論の原型みたいな考え方に触れられていて興味深い。私が思うにも、まさにその通りで探偵小説は主が探偵であり、いくら高められても芸術味は調味料の一要素に過ぎない。もし主人公を芸術にしてしまうと、それは探偵小説的要素のある芸術(マァ別分野)になるだけである。やはりこれは明かに正しいとしかいいようがないと思うのである。
【この文章は確認校訂を済ませています。】