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離魂術

甲賀三郎
  

 読者諸君は今を去ること三年前に、医学博士遠山五郎の研究室で、奇怪な三重殺人が行われた事を記憶して居られるであろう。三重殺人の最初の発見者はその場で昏倒して終ったし、覚悟をして現場に行った者も、誰一人顔を背けないものはなかったと云うほど、凄惨酸鼻を極めたものだった。
 当の遠山博士は全身に数ヶ所の刀傷を負うて、苦しみもが[*(1)]きながら斃[とう]れていた。元某大学教授のやはり医学博士である匹田繁三は右手に短銃[ピストル]を握りしめて、顳[こめ]かみ[*(2)]に一丸を受けながら即死していた。最後に最も怪奇を極めたのは、遠山博士の助手医学士彦川彌一の死で、彼は研究室の一隅のベットの上に長々と横たわって恰も自然の死であるかのように冷くなっていた。然し、彦川医学士は健康体であって、その日の午後までピンピンしていた事実があったし、いかなる点から云っても自然の病死とは思われなかった。ベットの上に高くイルリガートルがかかっていた点から、彼は注射を受けたものと信ぜられるが、イルリガートルに少量残っていた注射液は、分析の結果種々の薬種の混合で、数種のアルカロイドと未知の毒物を含んでいて、この薬液を注射されたとしたら、即死するの他はないと推断された。
 この奇怪な三つの屍体を横えた室内は、非常な格闘が行われたと思う他はないように、形容の出来ないほど乱雑を極めていた。椅子や卓子[テーブル]は悉く転[*(3)]倒して、研究所の器具は悉く床の上に落ち散って、その大部分はガラス製品である為に、微塵に砕けて足の踏場もない位で、その間を、試薬劇薬毒薬の類が縦横に落ち溢れ流れていた。
 この他殺自殺自然死と見られる錯綜した三つの死が、どうして起こったか、流石の経験の深い捜査官も、とうとう解決出来なかった。こうして三年の歳月は三重殺人の謎を未解決のままに過ぎ去ったが、三年後の或る夜、心霊術師として有名な某氏はこの惨劇の行われた部屋で、降霊術を行った。すると、霊媒は次のような奇々怪々な事を喋り出した。余り怪奇過ぎる事であるから、信ずると信ぜざるとは読者諸君の勝手であるが、ここに霊媒が語った所のものを、一言一句の修飾を加えることなく掲げる事にする。

 僕は三年前に死んだ。僕の肉体は三年前に墓石の下に投げ込まれた。僕の肉体はそこで糜爛[びらん]し分解して、今は骨のみになっているだろう。然し、僕の魂は生きている。今後も永久に死滅することなく、宇宙に浮かんでいるだろう。僕はすべてのものを見、聞き且つ感ずる事が出来る。僕はいつでも好む所に行き、誰の傍にでもくっついている事が出来る。現に僕はこの部屋の中央にいて、並んで居る諸君をちゃんと見ているのだ。
 僕は大学を出ると、紹介する人があって、遠山博士の私[プライベート]の助手になった。その事が私に取って幸福であったか不幸であったかは後に分かる事だ。
 遠山博士は奇妙な存在だった。天才は狂人であると云うが、遠山博士は正にそれであった。彼の頭脳の組織は全く天下一品[ユニーク*(4)]であって、今までに存在したいかなる科学者よりも数等勝れていたと思う。彼の考えることは、常に何人さえが空想だになし能わざることであり、その超思考的の事を実際に現出する能力に至っては、只[ただ]感嘆し畏服するの他なかった。
 遠山博士の頭は然し、既に幾分狂[きょう]していた。恐らく狂人でなければ離魂術などと云う奇怪な事を考え出さなかったであろうし、狂人でなければ、あくまで匹田教授を恐れることはなかったろうと思う。遠山博士が離魂術を考えついたのも、大部分は匹田教授を恐れた結果なのである。
 博士は匹田教授との間に、一婦人を介して、非常な仇敵の間となったらしい。その婦人は既に死んだのであるけれども、匹田教授は依然として遠山博士を恨み、超人間的頭脳を持っていかなる難問題でも茶飯事のように解いた遠山博士は、恰[まる]で幼稚園の子供のように匹田教授を恐れた。僕の考えでは匹田氏も遠山博士同様狂人だったのだと思う。
 僕が博士の助手になった時には、博士はもうその奇怪な研究に取りかかっていた。博士は云った。
「人間の生命は魂にあるんだよ。肉体は魂の宿だ。所が、その仮りの宿が死滅する為に、魂も共に滅びて終うのだ。だから、人間に永久の生命を与える為には、人口的に肉体と魂とを分離しなくてはならぬ。この術さえ成功すれば魂は肉体なしに永久に生きることが出来るのだ。」
 僕は初めは全然博士の言葉を信じなかった。僕は狂人の所に来たのを後悔した。然し、博士がいかにも真剣で、且つその研究なるものが、奇々怪々なものであったので、つい釣込まれて、実験の手伝いをした。
 そのうちに博士は非常な強迫観念に襲われている事を発見した。博士は実験の途中で、級に顔色を変えて、君、何か音を聞きつけなかったかいと云った事が度々あった。そうして何の物音もしないにも係らず、扉[ドア]の外を見に行かなければ承知しないのだった。博士はその最後は必ず殺されると信じ切っていたので、よく云った。
「わしを覘[ねら]っている男はきっと一度はわしを殺しに来る。わしはそれまでに早く離魂術を成功させたいのじゃ。わしの仇は魂の抜けた跡とも知らないで、わしの肉体を刺す。わしはその傍で何の苦痛も感じないで、それをじっと見ているのじゃ。ハハハハ。」
 一年ばかりの間に、僕は博士の敵と云うのは、元某大学教授の匹田氏である事が分かった。匹田氏は執念深く博士を覘[ねら]っているらしく、出来るだけ博士の苦痛を大きく且つ長引かせる為に、その所在をいつでも晦[くら]まして、而も絶えずどこからともなく博士を監視しているのだった。このことは遠山博士が堅く信じて屡々[しばしば]僕に云った事だが、後に考え合わすと、或る程度まで事実らしい。
 二年目に研究は稍[やや]曙光[しょくこう]を認めたらしい。博士はその時に、躍り上がらんばかりに歓喜したのをよく覚えている。三年目には余程研究が進んだ。
 僕が博士の助手になってから五年目に、研究はとうとう完成した。
 或る夜博士は上機嫌で、然し、非常に真剣に僕に云った。
「わしはとうとう完成した。肉体から思考力或いは心とも魂とも云って好いが、それを分離する事が出来るのだ。この薬液を血管に注射すると‥‥」
「死んで終います。」
 僕は叫んだ。何故ならその薬液中には恐るべき毒性のアルカロイドを幾種も含んでいたから。博士は首を振った。
「死の反対じゃ。永久の生命じゃ。議論は第二として、わしは早速実験して見たいと思う。わしは別に還元剤を用意して置いた。一旦離魂しても、この還元剤によって元の状態に戻す事が出来るのじゃ。」
 僕は別に逆らわなかった。博士はその日から実験台となるべき人間を探し求めたが、流石にそんな実験に身体を提供しようと云う人間は容易に見当らなかった。
 そのうちに二三週間は過ぎ去ったが、或[ある]朝博士の所に一通の電報が届いた。博士はそれを拡げて見ると、額に手を当てて苦しそうに唸って、危うく気を失おうとした。僕は驚いて博士を介抱しながら、その電文を見ると、
  オメデタウ ヒキタ とあった。
「うむ、匹田がとうとうわしの研究の事を聞きつけたのだ。奴に知られまいと思って苦心したのじゃが、奴はどんな隅からでもわしのしている事をちゃんと見ているのじゃ。奴がこんな皮肉な電報を寄越すからには、わしはもう、猶予はして居られない。」
 博士は苦しそうに呻きながら、その日一日食事も摂らずに鬱ぎ込んでいたが、夜になって突然僕に云った。
「彦川君、わしが実験台になろう。」
 僕は驚いて留めた。然し、博士は頑として聞かなかった。
「わしは一日も早く実験によって証明しなければならん。還元剤もあるし、何の危険もないのじゃ。自分自身に実験出来ないような事が、どうして他人に実験を施す事が出来るか。何も恐れる事はない。すぐこの薬液を注射して呉れ。還元剤はこれじゃ。」
 そう云って博士は火のついた煙草を持ったまま片隅のベッドに横になった。云い出したら後へは引かない博士の気性は能[よ]く知っているから、僕は仕方なく殺菌した注射針を取り上げて、薬液を静かに血管に送った。
 十秒、二十秒、別に何の変化もなかったが、三十秒経った時に、突如変化が起った。博士の四肢は俄かに硬直を始めた。持っていた煙草がパタリと床の上に落ちた。それと同時に博士は意識を失って終った。アッと思っているうちに、呼吸が次第に激しくなって、次第に力が弱くなり、やがてパッタリと絶えて終った。脈拍も感ずる事が出来なくなった。と、それより少し前から、皮膚に、紫色の斑紋がポツポツと現われ始めた。ああチアノーゼ。恐るべき死の徴候だ。
 僕は驚いて注射を中止した。それと共に強心剤を注射し、人工呼吸を施し、あらゆる方法を試みたが、博士の顔面は全く血の気が失せて蒼白となり、ポカンと開いた眼はガラスで作った人形の眼そのままだった。
 ああ、博士は死んだ。僕は博士を殺したのだ! 或いは博士は自殺する積りで、僕に薬液を注射させたのではなかろうか。いずれにしても、僕が博士の依頼を受けて、注射した事を誰が認めて呉れるだろうか。ああ、何と取返しのつかない事をして終ったことか。
 僕はすっかり転[*(5)]倒して終った。暫くは茫然としていたが、やがてそうだ、一刻も早く警察に知らせなければならぬ。僕は次の室の電話器の所に走ろうとした。その時に、僕はハッと思い出した。そうだ、還元剤があったではないか。
 然し、僕は首を振った。博士は絶対に死んでいる。今日の医学から見てすべての点で絶対の死の徴候を現わしている。最早どんな事をしても無駄だ。けれども、と僕は思い直した。博士があれだけ自信ありげに云い置いた事だ。一度試して見る義務があるだろう。
 僕は博士の屍体に、還元剤を注射した。
 と、ああ、何たる奇蹟! 博士の顔色は徐々に血色を恢復してきた。ああ、真に絶対今までの医学の決して見なかった奇蹟だ!
 注射が進むにつれて、脈搏が次第に恢復して来た。呼吸が始まった。やがて、睫毛が微かに動いた。おお身体は再び温かくなって来た。僕は殺人の罪から免[のが]れた。僕は安心と、あまりに異常な出来事の為に、フラフラとして、急にあたりが暗くなったかと思うと、そのままそこへ倒れて終った。
 ふと気がつくと、遠山博士がニコニコして僕の肩を揺っていた。博士の片手には、ブランデーのグラスがあった。
「もう大丈夫だ。彦川君、わしは君がわしの屍体を一生懸命に処理していた時に、ちゃんと君の傍にいて見ていたよ。」
「えッ。」
「わしは君が還元剤の事を忘れたのかと思って心配していた。君はもう少しで警察へ電話をかける所だったじゃないか。」
「えッ、ど、どうしてそれが分かったのですか。僕は電話をかけようと思って、隣の部屋に行きかけただけですのに。」
「みんな分かるよ。わしの魂は身体を離れて、ちゃんとすべての事を見ていたんだから。君は疲れたろうから、一度悠[ゆっ]くり寝るが好[い]い。」
 博士の言葉に僕は混乱した頭を抱えて、寝室に退[さが]って、ベットの上に身を横[よこた]えた。然し、疲れ切って居りながら安眠は出来ず、恐ろしい夢ばかり見ながら転輾[てんてん]とした。ああ、遠山博士は何と云う奇々怪々な恐ろしい事を発明したのであろう。注射後の博士は誰が見たって完全に死んでいたではないか。
 翌晩博士はニヤニヤしながら云った。
「彦川君、君一つ実験して見ないか。昨夜の実験で危険のない事は分かったろうから。」
 僕は暫く考えてから元気よく答えた。
「やりましょう。是非やらせて下さい。」
「その元気じゃ。発明者は何事につけてもそれだけの元気がなくてはいかん。」
 博士は満足そうに云って、早速薬液の調合にかかった。僕はベットに横になって、静かに待っていた。やがて腕のあたりにチクリと痛みを感じた。注射針が刺されたのだ。ああ、もし、この実験が失敗に帰したらどうか。僕はこのまま死んで終うのだ。然し、僕は一生懸命に恐怖を振い落した。そうしてじっと天井を見ていた。腕から肱[ひじ]にかけて非常に脹[は]れぼったくなって来た。肩の方が掻[か]ゆくなって来た。が、気持が悪いと云うよりは、何となく愉快になって来た。そうして非常に眠くなって来た。突然――あたりが真暗[まっくら]になった。と、頭の中に恰[まる]で氷のように冷たいものが這入った感じがして、身体がパッと飛んだようだった。と、再びあたりが明くなった。
 見ると、僕は博士の傍に坐っている。博士の前には僕の身体があらゆる死の徴候を現わして、冷たく横[よこた]わっている。僕は平気でそれを眺める事が出来た。僕には身体はない。然し、見る事も聞く事も動く事も出来る。僕は博士に喋りかけようとした。然し、僕は声を出す事は出来なかった。
 博士はじっと僕の屍体の手を取って、心配そうに顔を見つめていた。僕の顔は顎がダラリと垂れて、眼はもう白眼ばかりになっていた。顔全体はひん曲がって、苦痛の表情を現わしていた。僕は苦しくもなんともなかったが、まぁ、何と云う醜い体だろう。之が僕の身体だったのか。
 僕は自在に部屋の中を飛廻った。そうして、おお、閉った扉[ドア]を通り抜けて次の部屋に行けるではないか。隣の部屋から帰って来ると、遠山博士は頻[しき]りに還元剤をイルリガートルに入れていた。僕は又[また]外に出た。僕はいつでも行きたい所へ一瞬間に行ける事を発見した。屋根の上、街の上、家の中。僕は雑沓[とう]した人混みの中へも這入った。然し、誰一人僕の存在に気がつきはしない。僕は酔ったような気持で愉快に飛び廻っていたが、やがて、急にあたりが暗くなった。何とも云えない変な気持になった。
 眼蓋[まぶた]が馬鹿に重い。僕は一生懸命に押し開けた。すると、僕は元の通りベットの上に寝ていて、博士が腰を曲げて僕を覗き込んでいた。耳が暫くガーンと鳴っていたが、直ぐに普段の通りに恢復した。
 僕は切々[きれぎれ]に僕の愉快な経験を語った。博士は嬉しさに堪えないと云う風に叫んだ。
「わしは成功した。とうとう成功した。」
「先生! 一体之はどう云う作用ですか。どう云う原理に基くのですか。是非説明して下さい。」
「原理? 説明? 下らん事じゃ。この世にはいくらでも説明のつかないものがあるではないか。電気は? X線は? ラヂオは? わしには説明は必要はない。必要のあるのは事実だけじゃ。」
 遠山博士と僕とは博士の驚嘆すべき大発明を公表する前に、一二ヶ月間、互[たがい]に離魂術を施しては、思うままにその愉快を味った。今から考えて見ると、我々は秘密に二人で楽しんでいるよりは、もっと早くこの発明を一般に知らせるべきであった。然し、遠山博士自身が余り早く世に発表することを好まなかったので、僕としてはいたし方なかったのだが、愚図々々してるうちに、とうとう最後の日が来たのである。
 或夜、それは離魂術が完成してから二ヶ月目、今から恰度[ちょうど]三年以前の事であるが、私は何回目かで博士に離魂術を施す事になった。薬液を注入すると、博士は例の如く全く死んで終った。度々の事で僕はもう驚きはしなかったが、やがて、予定の時間が過ぎて、例の如く還元剤を注ぎ始めると、博士は徐々に恢復し始めたが、この時に今までにない苦悶の表情を認めた。恢復時にあっては、離魂当時の稍[やや]不愉快そうな表情がほぐれて、次第に生々[いきいき]として、恢復と同時に朗かな表情になるのが常であるのに、この夜に限って、博士は恢復すると共に、うーんと苦しそうな呻き声を発して、あたりをキョロキョロと眺めた。
「ど、どうなすったんですか。」
 僕が怪んで訊くと、博士は恐怖に充ちた眼を僕に向けて、
「匹田じゃ。匹田がとうとう僕を殺しに来るのじゃ。彼はもうわしの秘密を悟ったのじゃ。彼は群集にまぎれて居ったが、わしの方を恐ろしい殺気を含んだ眼で、きっと睨んでいた。彼は今にここへ来るに違いない。早く、早く、もう一度離魂術を施して呉れ給え。」
 僕は首を振った。離魂術に使用する薬液は恐ろしい毒液であるから、連続して二回も注射すると、還元剤の効力を減じて、それこそ真に死んで終う恐れがあるのである。
 僕が引続き離魂術を行う事を拒絶すると、博士は頷いた。
「いかにも君の云う通りじゃ。では君が代って離婚して呉れ。わしはさっき確かに群集に交った匹田を見たのじゃ。けれども、恐怖のあまり、それがどこだか見るのを忘れたのじゃ。それがどこか遠く離れた所か、或いは近くか、能く見究めて来て貰いたい。君はどこへでも行こうと思う所に行ける筈じゃ。それに匹田と云う男は顔に大きなひつつれがあるから、直ぐ分るのじゃ。彼は昔は美貌で鳴らした男じゃったが、わしが、いや、或る婦人が彼の顔に硫酸を浴びせたのじゃ。その火傷の痕が大きく顔面に残っているのじゃ。さぁ、早く支度をしてくれ給え。」
 僕はこの時に何となく気が進まなかった。然し、博士は非常に真剣で、命令する如く、嘆願する如く云うので、仕方なくいつものベットの上に横わった。やがて、薬液は注射された。いつもの如く僕は死んだ。そうして、僕の身体を離れた魂は博士の傍から僕の浅ましい屍体を見た。
 恰度[ちょうど]この時である。扉[ドア]の外に不意に荒々しい足音が聞こえた。博士ははっと顔色を変えて、ガタガタ顫[ふる]えながら隅の方へ後退りをしたが、扉[ドア]は何の予告もなく押し開けられて、顔一面に火傷の痕のある、二目とは見られない精悍な男が飛込んできた。彼は私の屍体などは目も呉れないで、遠山博士の傍に驀進した。
「うむ、しめたッ、貴様は生きていたなッ。離魂術などと云って、死んだ亡骸[なきがら]では仕方がない。生きている貴様を殺してやるのだッ。いつまでも長く苦しめてやろうと思ったが、奇怪な発明したと云う事だから、もう猶予している訳には行かないのだッ。覚悟しろッ。」
 匹田氏はこう叫んで、いつの間に用意したか、抜身の短刀を振って、遠山博士に飛かかった。遠山博士はブルブル顫[ふる]えながら部屋の中を逃げ廻った。
 肩のあたりに一刺傷を受けた博士は、匹田氏に武者振りついた。激しい格闘が行われた。然し、僕はどうする事も出来ない。じっと見ているより他はなかった。
 数ヶ所の傷を受けて遠山博士は全身血を浴びながら、ガックリと斃[とう]れた。ああ、博士は死んだ。誰が、博士以外の誰が、僕の屍体に還元剤を注いでくれるのだ! ああ、僕はもう永久に僕の身体に帰れない。
 遠山博士の死んだのを見ると、ガッカリした匹田氏は何を思ったか、ポケットからピストルを取出して、顳[こめ]かみ[*(6)]にあてがうと、引金を引いた。
 翌日の朝三つの死骸は発見された。僕の身体は誰一人死んでいる事を疑うものはなかった。僕は僕の死体を見守りながら、悲しみ泣いた。然し、誰一人その声を聞きつける者はなかった。
 僕の肉体は死んだ。そうして三年前に墓穴に投げ込まれた。然し、僕は生きている。こうしてみんなの傍に坐ってみんなのすることをすっかり見ている。僕はいつどこでも好きな所へ行ける。僕は永久にこうして逍[さま]遙[よ]っているのだ!


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
*(1)"もが"は、「足宛」という漢字
*(2)"かみ"は、「需頁」という漢字
*(3)"転"は、「眞頁」という漢字を代用した
*(4)天下一品の四字をユニークと読ませる
*(5)は*(3)と同様。
*(6)は*(2)と同様