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探偵小説と化学

春田能為
  

  探偵小説と化学とは一寸聞くと密接な関係があるようであるが、其[その]実探偵小説中に化学の現われて来るのは甚だ稀で、我国の創作ものには殆ど無いと云っても好[い]い位で、外国のものでも、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、フリーマンのソーンダイク博士、リーヴのケネデー探偵などに出て来るもの僅[わずか]に十指を屈する位のものである。其の理由とする所は一般読者に化学が常識として入って居ない点もあろうが、一見不可解の事実も化学を知って居れば訳なく解けると云うような題材は小説として余り面白くないからでもあろう。然し探偵小説の題材もあらゆる方面のものが用い尽されて、稍[やや]行詰まりの感があるから、将に化学方面のものが開拓せらるべき時で、この一小篇は将来探偵小説に志す人に幾分参考にもなり、且つは外国小説の翻訳に当りて、化学上の事や薬品名などに往々誤訳又は誤解等を見出す事が多いので、小説を原書で読む人及び翻訳者に取りて、又幾分費する所があれば幸[さいわい]であると信じ執筆したものである。
 一 シヤン及青化物
 シアン及青化物は頗る猛毒のもので探偵小説等に用いられる機会が最も多いと思われるから第一に挙げる
■シアン 英 Oyanogen 独 Cyan (CN)2
 シアンは窒素と炭素との化合物で、無色桃実[もものみ]のような臭[におい]のする猛毒なる瓦斯である。このものは英語ではサイアノゼン独逸語ではチアンと呼ばれるのであるが、何時の間にか一般に独逸語の英語読みとも云うべきシアンと云う名で通用するようになった。こう云う読み方の例は外にも可成[かなり]ある。
 シアンはシアン化水銀、黄血塩(フエロチアン加里)等より発生せしめる事が出来るが、簡単に得[う]る方法は胆礬[はん](結晶硫酸銅)を二倍の水にて溶解したるものに、青酸加里の濃厚溶液を徐々に加え加熱するのである。
■シアン化水素(又は青酸)英 Hydrogen Cranide, Hydro-Cyanic acid or Prussic acid 独 Cyanwasserstoff oder Blausaure HCN
 シアン化水素はシアンと水素の化合物即ち窒素炭素及水素の三者の化合物である。
 純粋のシアン化水素は動き易き無色の液体であるが、沸騰点低き為め容易に無色の瓦斯となり、苦?桃の如き臭いを持ち空気中にて点火すれば美麗なる紫色の焔を挙げて燃える。このものは本来鉄塩と共に美麗なる青色顔料を造る性質あり。歴史的にはその青色顔料(ブルシャンプルー或はベレンス)より発見せられたので別に青酸と呼ばれるのである。
 シアン化水素は頗る猛毒なるもので、犬は其の眼に一二滴点眼せられると三十秒以内に死し、其の全血液量の十萬分の一を摂取する事によりて致死する。人は〇、〇五瓦[ぐらむ]によりて死ぬ。シアン化水素が空気中に混入する時は頗る危険で〇、〇一%の混入は既に眩暈を起し、〇、〇五−一%の混入は僅々数分間に死に致すと云われて居る。之が解毒剤はアムモニア及塩素も効果があるが、硫酸第一鉄(緑礬)及炭酸曹達[そうだ]の混合溶液が最も有数と云われて居る。然し之は程度問題であって、シアン中毒は先ず療法がないと云う事である。
 シアン化水素を得るには黄血塩又は青酸曹達[そうだ]にて分解すれば好[い]いので、頗る簡単であるから、後に述べる砒化水素の場合のような装置で人知れず瓦斯を発生せしめ以って犯罪用に供する事は小説の題材たり得るであろう。
 シアン化水素を発生せしめるに、小説に採用すべく更に面白い方法と思われるのは、左の諸合成方法であろう。
 一、赤熱せる木炭上にアムモニア瓦斯を通過せしめると、シアン化水素を生ずる。
 之などは木炭を使用する事多き我国に於て、何か題材に用いる事が出来そうな気がする。
 二、アセチレン瓦斯及窒素瓦斯を電弧[アーク]等によりて強熱する
 三、アセチレン瓦斯及酸化窒素を電弧[アーク]にて作用せしめる。
 シアン化物の検出法は、毒殺の疑[うたがい]ある時に其の一部を取り先ず酒石酸にて酸性にして、シアン化水素を発生せしめ、之を受器に集め苛性曹達[そうだ]にてアルカリ性とし、之に硫酸第一鉄液を空気中に放置し予め其の一部を第二鉄に替えたるものを加え、塩酸で酸性にする。シアン化物を含む時は茲に青色のプルシアンブルーを沈殿するのである。
■青化加里 英 Potossium Cyanide 独 Kalium Cyanid KCN
 青化加里は一に青酸加里とも呼ばれ、無色の結晶で猛毒なるものである。このものは昆虫採集家が殺虫用に用い及び寫眞家が往々使用するもので、普通の家庭には見る事が出来ないが、そう云う人達の間に起った事件に此の薬品を取り扱う事が出来るであろう。
 青化加里は又金の冶金[やきん]に欠く可[べ]からざるもので、即ち金を他の不純物と分つのに、先ず青化加里の溶液を働かしめると金は青化加里と複塩を造り水に溶解するので、之の溶液より金を析出せしめるのである。
 この金の青化加里溶液に亜鉛を投入すると、亜鉛はずんずん溶解して金が析出して来る。この事実を利用すると、亜鉛を金に換えると云う詐欺師があって、原因不明の死を遂げたが、それは青酸中毒であったと云うような小説が造れると思う。
■黄血塩及赤血塩 Potassium Ferrocyanide (/) Ferricyanide 独 Kalium Ferrociarid K4FeCy6 (/) Kalium Ferricgauid K3FeCy6
 黄血塩及赤血塩(正しくは黄色血滷塩及赤色血滷塩)は青化物中最も早く知られたもので、共に其の名の示す如き色を有する光沢ある結晶で獣血、皮革又は頭髪の如く窒素を含む化合物を鉄及苛性加里と共に熔融して得られるのでこの名がある、加里及鉄の青化物の複塩であって、青色顔料の製造に用いられ、写真家がよく使用する所の薬品である。
 或る写真家が暗室で現像中茶コーヒーのようなものを飲用する習慣があったとする。黄血塩又は赤血塩の溶液は常に暗室中に貯えられ、且つその色合も茶又はコーヒーに酷似するし、それに暗室の赤色光では一層判別し難いから、之を置き換えてて飲用せしめると云うような事が一つの題材たり得るであろう。
 この薬品は常に翻訳者を悩ますものの一つで、いろいろに書かれて居るのを見るが、矢張り一般名に従った法が好[い]いであろう。ソーンダイクの『焼け跡の頭蓋骨』中にこの薬品を服毒後焼死すれば痕跡がないと云うような事が書いてあるし『第三の手』とか云う中には、死者にこの薬品の溶液を注射して、シアン化中毒と思わせる事及び煙草の口に塗って置いて毒殺する事が書いてあるが、後者の方は実際は一寸[ちょっと]溶液を吸口に塗った位では、殺す事は出来まいと思う。
 二.砒素及砒素化合物
砒素及砒素化合物は古くより毒性あるものとして知られ、天然に産する硫化物たる雌黄[しこう]、鶏冠石等は我国の講談に表われて来る毒殺に用いられて居る。
■砒化水素 英 Hydrogen arsenide or Arsine 独Arsenwassretoff AsH3
 砒化水素は無色の重き瓦斯で(空気に対し二、七倍)特異の不快なる臭気を持って居る。頗る猛毒のもので、極めて微量なる瓦斯を吸入するも即死する。本瓦斯の発見者ゲーレンは為めに其の生命を犠牲にしたのである。
 亜砒酸其他の砒素化合物に硫酸及亜鉛にて発生機の水素を働かしめれば生ずるので、亜砒酸と亜鉛との混合物に硫酸を働かしめれば好[い]い。確かケネジイ探偵物であったと思うが『十月の恐怖』とか云う題で、或る悪僕がこの瓦斯を利用して殺人を行う事が書かれてあった。
■亜砒酸 英 Arsentious acid; Arsenious oxide 独 Arsenigsaaveranliydird
 正しくは無水亜砒酸と呼ぶべきで、白色の粉末であって、殺鼠[さっそ]剤として能く用いられたものであるから、一般によく知られて居る。
 亜砒酸の〇、〇六瓦[グラム]の服用は既に危険とせられ、〇、二瓦[グラム]は致死量である。然し亜砒酸の常用者は普通人の耐え得るよりも遙に多量を、平気で服用し得るもので、即ち〇、三瓦[グラム]位を服用した例がある。
 解毒剤は硫化水素が好[い]いとせられて居たが、ブンゼン、ベルテロー両氏の研究により、現今では新[あらた]に沈殿せしめて製したる水酸化鉄が、最も有効であるとせられて居る。即ち胃中にて、水にも胃酸にも解けない塩基性亜砒酸鉄が出来るからである。
 砒素の検出方法は有名なるマーシュの方法が最も多く行われる。簡単に説明すると、砒素を検出せんとするものを、亜鉛及硫酸にて水素を発生せしめある装置中に入れ、砒素又は其化合物を砒化水素として発生せしめ、之を硝子管中に導き外側より熱すると、砒素が分離して管壁に附着し所謂砒素鏡が出来るのである。この方法で、〇、〇〇〇〇一瓦の砒素をも検出することが出来るのである。
 三、燐及燐の化合物
 燐 Phosphorous 独 Phosphor
 燐には黄燐と赤燐と二種の同素体があり、前者は猛毒性があって、之を飲用するも、又之が蒸気に触るるも危険で、為めに世界各国は黄燐マッチの製造を禁止して居る。近頃我国で喧ましい殺鼠[さっそ]剤は主として黄燐であるが、特異の臭気により他殺用には供する事が出来ない。先年「猫いらず」を以って白痴を殺した例が新聞に出て居たようであるが、之は白痴であったから可能だったのであろう。
 燐の非常に燃え易い事や、燐光を発する事は周知の事実であるから、説明を省く。
 燐の致死量は〇、一瓦[グラム]位である。
■燐化水素 英 Hydrogen phosphide or phosphine 独 Phosphorwasserstoff PH3
 燐化水素には液体及固体のものがあるが、茲[ここ]では瓦斯体のものだけを挙げる。
 燐化水素はフォスフィンとも云われ無色、魚肉の腐敗したような臭気を持ち燐を苛性加里又は石灰乳で煮沸すると得られる瓦斯で頗る猛毒なものである。小量を吸入するも、呼吸困難となり斃[たお]れる。非常に燃え易い瓦斯で、空気中には摂氏一〇〇度で既に発火する。
 之は何か石灰を扱うような場所で、燐を投入して燐化水素を発生せしめると云った様な事に使う事が出来るであろう。
 燐の検出方法は、検出せんとする物質を、水にて煮沸し、其の蒸気を硝酸銀溶液にて湿[うるお]したる紙に触れしめると、紙に黒色の金属銀を析出するのである。
 四、酸、塩基及塩類
イ酸 英 Acid 独 Saure
 酸の簡単な定義は、所謂酸性を有し青色[せいしょく]リトマスを赤変[せきへん]し塩基に直接結合して、中性の塩類を造るものであって、非金属元素の酸化物の大部分、或種の金属元素の酸化物、造塩[ハロゲン]元素の水素化合物はすべて酸である。
■硫酸 英 Sulpphuric acid 独 Schwefelsaure H2So4
 硫黄の酸化物、亜硫酸瓦斯及無水硫酸の二種の瓦斯があって、夫々[それぞれ]水に溶解して、亜硫酸及硫酸となる。硫酸は無色無臭の濃稠[のうちゅう]なる液で、水で稀訳[きやく]すると発熱し、有機物に触れると黒変[こくへん]し、遂に発火に至らしめる。硫酸二〇瓦[グラム]の嚥下[えんげ]は死に至る。塩基に遭う時は硫酸塩となる。硫酸の外観はグリセリン(俗にリスリン)に酷似して居るから、之も何かの種に使う事が出来よう。
 硫酸は化学工業上欠くべからざるもので、硝酸、塩酸の製造、硝酸と共に火薬セルロイドの製造、染料製造肥料製造等に多額に用いられる。又染色、写真等にも用いられるから、間々[まま]普通の家庭に於ても見かける事が出来る。硫酸に無水硫酸を溶解せしめた発煙硫酸と云うのがある。之は硫酸よりも更に激しい作用をして有機物に触れると直ちに発火する。純粋のものは夏季の外[ほか]固体で、温湯で周囲を温めると液体になるから一寸[ちょっと]小説の材料に使えると思う。
■硝酸 英 Nitric acid 独 Salphercrsaure HNO3
 硝酸は南米智利[チリー]国に産する智利[チリ]硝石(硝酸曹達[そうだ])を硫酸で分解して製する。然し近来は空気中の窒素と酸素とを、電弧[アーク]の力で化合させ、亜硝酸瓦斯とし、次[つい]で空気で酸化して硝酸瓦斯にして水に溶かして硝酸とする。硝酸の用途は硫酸と共に火薬に用いられ、及び染料、セルロイドの製造に用いられるのである。
 硝酸は皮膚に触れると、或化合物を生じ、皮膚を黄染し時日を経なければ中々消えない。之などは或る品物に誰が触れるかを試すような場合に使えるかと思われる。
 序[ついで]に述べるが、窒素と酸素との化合物に空気 laughing gas と云うのがある。正しくは次亜硝酸瓦斯とでも云うべきで、N2Oと云う記号で現わされる。甘味ある愉快な臭を持つ瓦斯で、この瓦斯を呼吸すると、笑い出す所から空気と名付けられている。一時的の麻酔には非常に良好なものであるが、多量の吸入は死を致す。この瓦斯の製造は種々あるが、最も簡単なのは硝酸アムモニウムを強熱する方法であるが、又は簡単に得られる硝酸曹達[そうだ]――智利[チリ]硝石――と硫酸アムモニウムとの混合物を摂氏二四〇度に熱しても好い。
■塩酸 英 Hydo chloric acid 独 Chlorwasserstoff HCl
 塩酸は塩素と水素との化合物塩化水素が水に溶解したもので、食塩を硫酸で分解すると出来る。
 硫酸硝酸塩酸燐酸等の無機酸(鉱酸とも云う)に対して、有機物――炭素を含むもの――の酸を有機酸と云う。一般によく知られて居るものは、錯酸、石炭酸、酒石酸等で、その他蟻酸、乳酸と云ったようなものであろう。
■錯酸は有機酸中最も酸性強きもので、酢の主要成分であり、錯酸鉄の如く染色の媒染剤として用いられる事は普通に知られて居る。
■石炭酸は溶液として消毒用に供せられる事は周知の事実であるが、火薬の原料となる事は一寸[ちょっと]知られて居ない。酸は先ず之位にして置こう。
(ロ)塩基 英 Base 独 Basis
 塩基は赤色[せきしょく]リトマスを青変[せいへん]し、酸によって塩を生ずる。金属元素の酸化物は大部分塩基で、中でもアルカリ金属――加里曹達[カリナナリウム]――は最も塩基性強く、アルカリ土金属之に次ぐ。
■苛性加里 英 Potassium yhbroxide, Caustic potash 独 Kalinm hydroxid
 加里の水酸化物(酸化加里の水と結合したもの)で、水酸化加里と云うのが正しいが、苛性加里と呼ばれる方が普通である。皮膚に触れると之を侵し、毛織物の如きも、苛性加里には甚だ弱い。石鹸製造、紙製造等に――尤も苛性曹達[そうだ]の方が値が安いから多[おおく]は曹達[そうだ]の方が使われる――用いられ、之等の製造所又は苛性曹達[そうだ]の製造所で煮詰める際など、よく大釜内に苛性加里又は苛性曹達[そうだ]の濃原液が煮沸せられる。そこへ過失等で職工が落ち込むと、痕跡を残さない迄にとろけて仕舞うのである。苛性加里は酒精[アルコール]によく解け苛性加里の酒精溶液は酒精加里と云われる(Alcohol potash)。ケネディ探偵の「緑色[りょくしょく]の死」と云ううちにサントニーネの検出法に出て来るが「水酸化酒精加里」と訳してあったのを見たが単に酒精加里の方が好[い]い。
■石灰に就いても別に申述べる程の事はない。
■アムモニヤ 英 Ammonia 独 Ammoniak NH3
 窒素の水素の化合物で、無色の刺戟臭を有する瓦斯で水によく溶解する。アムモニアは肥料として欠くべからざるもので、近時之を空気中の窒素と水より得たる水素とを直接化合せしめて製造する方法が発達して来た。アムモニア瓦斯は又製氷用に供せられる。
 アムモニアは刺戟臭甚しく、殺人などには到底用いられないが、危害を避ける為めに、ピストルからでも発射させる事は面白かろう。水に非常によく溶けるから、常に水分のある眼球などはすぐにやられて、暫くは眼を開[あ]く事が出来ない。
(ハ)塩類 英 Salt 独 Salz
 塩類は酸及塩基より生じたもので、食塩を以って代表的のものとする。従前よく自殺用に供せられた塩類の一二を挙げよう。
■昇汞 英 Merculic chloride 独 Quecksilber chlorid HgCl2
 昇汞[しょうこう]は水銀と塩素と化合したものであって、白色の結晶である。稀薄溶液は消毒に用いられる。
 一体水銀及水銀化合物は毒性多く、之等のものを扱う所では、職工等が短命であると云われて居る。水銀は直接之を嚥下[えんげ]しなくっても長日月の間に徐々に揮発して来る蒸気に触れると、中毒症状を起すものである。
■重(*)クローム酸加里 英 Potassium bychromato 独 Kaliuml ichromat KCr2O7
 美麗なる赤色結晶で、電池染色等に用いられ、比較的手に入[いり]易いのでよく自殺に用いられる。斯くの如く鮮明なる着色物は到底他殺の用には供する事が出来ないが、ドロップスの如きものに混ずる事は出来るであろう。前掲の赤血塩は外観一寸[ちょっと]ドロップスに似ているので、私が写真に使う目的で机の上に置いたのを、子供が見てドロップスでしょうと云った時には、思わずゾッとした。こんな事も何か探偵小説の材料になりはしないかと思う。
五、毒瓦斯
 前に述べたシアン化水素、砒化水素等は即ち毒瓦斯であるが此の項に纏めたのは多く戦争用のものである。
 戦争用の瓦斯としては必ずしも知らない中[うち]に敵を殺さなくてもよい――即ち必ずしも無色無臭のものでなくてもよいので、むしろ有色有臭で敵が辟易して逃げる方が好都合であるが、ただそれが比較的容易に多量に得られる事と、空気より重い事を要するのである。
■塩素 Chlorine (Chlor) Cl2
 塩素は食塩溶液を電気分解するか、又は塩化水素より酸化剤で水素を奪えばよい。淡黄色の瓦斯で、空気の約二倍半の重さである。
■臭素 英 Bromine 独 Brom 臭化曹達[そうだ]又は加里より塩素と同様に得られる、濃赤褐色の液体で非常に揮発し易く塩素より一層刺戟性強く、殊に眼を犯される事甚しい、所謂催涙弾と云うのはこの瓦斯を発生させるのだそうである。
■フォスゲン瓦斯 英 Phosgen 独 Phosgen
 塩化カルボニル CoCl2 は一にフォスケンと呼ばれ猛毒なる瓦斯である。
 一酸化炭素と塩素とを直接日光によりて化合させれば得られる。
■一酸化炭素 Carbon monoxide 独 Kohlenoxyd CO
 一酸化炭素は無味無臭無色の瓦斯で頗る猛毒のもので、シアン化水素と共に人知れず殺人の用に供する事の出来るものである。
 蓚酸蟻酸[しゅうさんぎさん]の如きものを硫酸で分解すれば得られるから、砒化水素と同様の手段で之を発生させる事が出来る。
 一酸化炭素〇、〇五%を含有する空気を三十分乃至二時間呼吸すれば、眩暈を感じ、〇、一%を含有する時は歩行困難となり、〇、二%は人事不省に陥らしめ遂に死に至らしむ。〇、七−一、〇%の含有は数分間に即死せしむるのである。
 一酸化炭素は、石炭瓦斯中に含有せられて居るし、木炭の不完全燃焼に依っても起り、炭坑中などには自然に発生する事がある。
 爆発後の炭坑などへ入って行くのは甚だ危険であるから、坑夫に籠に入れた廿日鼠を携帯させる。そして鼠が弱って元気が無くなるのを見れば、坑夫はすぐに逃げ出すのである。

 以上で極く簡単に探偵小説に於ける化学の利用と云う点を説いた積[つもり]である。尚有機化合物に就いては他日機会を得て述べたいと思う。
 然し御断りして置くのは、今迄書いた事は尽く現在の化学に於ける既知の事実であって、化学の進歩は一日と雖も停滞しないのであるから、現在の化学では未知であるが、近き将来に於て可能性のある事実を使うのも面白いと思う。例えば或る探偵小説に金庫を開いた疑[うたがい]のある者に毒薬を飲ませ、その解毒剤を金庫の中へ入れて置いて、先に開いたものは暗号を知って居る筈であるから、早く開いて解毒剤を出せと云うのがあったが、之などは一寸[ちょっと]面白い。


(備考―管理人・アイナット編)≪新字体に変換≫
特に書き記すこともないが、■重(*)クローム酸加里の(*)の「重」の字は判読が困難だったので、字を間違えている可能性もある。
それと言うまでもない注記だが、これは大正十三年時点での化学講座である。そのつもりで読まなければならない。